幸福になんてならなくていい。というかなりたくない。幸福というより、意義のある人生を生きたい。例えそれ(意義)が幻想でも。

岡本太郎は自著の中で『「幸せなら手を叩こう」と歌っている若者を見ると蹴飛ばしたくなる』みたいな事を言っていた(うろ覚え)。

世間一般に言われる「幸せ」というものが得てして狭い自己保身の産物でしかなく、そんなものに安住しているような連中(まして若いうちからそんな世界に逃げ込んでいる連中)は、碌なもんじゃない。という事だ。



二十代前半に岡本太郎の書籍に触れて以来、太郎のそんな思想に僕はうっすらと共感してきた。
ただ、それが確信を伴うハッキリした共感にまで昇華される事はなかった。



それ以降も僕は自分のペースで様々な方向性の哲学やちょっと胡散臭い自己啓発書を齧っては捨て齧っては捨て、必死に人生について考えてきた。

その過程でどんどん膨れ上がってきたのが、「幸福」への懐疑である。


哲学書にせよ自己啓発書にせよそれ以外の幸福論系の書籍にせよ、そのゴールは得てして「幸福になる事」だ。

さもそれが疑いようもない絶対真理かのように、「幸福になるためにはどうすればいいのでしょう?」とそれらの書籍は問いかけてくる。
そして、こうすれば幸福になれます。と、さして役にも立たない幸福になるメソッドを押し付けてくる。

書店やAmazonに並ぶ膨大な書籍の数々。それらのほぼ全てが、「幸福になるためにはどうすればいいのでしょう?」という前提を共有している。

「幸福という前提」を疑うアプローチを採る書籍は岡本太郎の『自分の中に毒を持て』をはじめ、ごくわずかである。




ギャレット・マクナマラの人生に見た違和感

(注!)以下『100フィートの波』に関する一部ネタバレを含みます

そうして、そんな僕の「幸福」への懐疑を決定づけたのが、『100フィートの波』(U-NEXT独占配信)という映像作品を観た事だ。

本作は大波を追うサーファー(ビッグウェーバー)達の生き様を追いかけたドキュメンタリーシリーズなのだけど、主人公的な立ち位置としてギャレット・マクナマラという天才サーファーが登場する。


ギャレットはドキュメンタリーシリーズ当初は才気に満ち満ちたサーファーだ。
しかしシリーズ中盤で大けがを負い、そのトラウマから徐々にサーフィンから遠ざかるようになる。

そして、シリーズラストでギャレットは、半ばサーフィンを捨て、愛する妻や子供達とハワイで平穏な日々を送る事を選ぶ。

そしてそんなギャレットの姿を「これが正しい、理想的な人生の送り方である」とばかりに、本作の幕は下りる。

ギャレットの妻も、彼がサーフィンにのめり込むことを止め、妻である自分や家族に寄り添う(凡庸な)父親に変化した事にどこか満足気だ。


でも僕にはぶっちゃけ、彼の姿は「怪我のトラウマを乗り越える事から逃げて、“潜在意識ではまだまだサーフィンを愛しているのに”、家族を愛する理想的な父親を演じる事で現実逃避を図っている」ようにしか見えなかったのである。

ギャレットに限らず本作に登場するサーファーの中には、サーフィンが不調になるとそれから逃避するように性愛に逃げるサーファーが何人か登場する(そしてまたそんな心理現象を当人は恐らく自覚していない)。
それで、サーフィンが好調になると再び性愛に逃げる事をやめるのである。


僕はここに、「幸福」が持つ欺瞞を発見するのである。




つまり(特に天才と呼ばれる人種において)幸福(性愛)とは、「人生において本当に大切なタスク…且つそれゆえに恐ろしい重圧をも内包しているタスク……つまり自己実現」から逃避するためのアヘンでしかないのではないか?


サーフィンにおいて天才的なパフォーマンスを発揮する事は、誰にでも出来る事ではない。また、仮にサーフィンの天才であっても、継続的に結果を出すには相応の訓練も必要だ。
その日々は決して、「幸福」と呼べる代物ではなく、むしろ苦難に満ちているだろう。


一方で、「凡庸な幸福」に浸っていればそんな事は考えなくて済む。
男であれば興奮すれば性器は勃起し、それを女性器に挿入すれば気持ちよくなれる。
そこまでいかなくても、愛する女性とハグをすればオキシトシンが出る。
我が子の世話をしていれば同様にオキシトシンが出る。
我が子にパパパパと言われている内は、自己有用感を満たす事ができる。

だかしかしそういった幸福は、語弊はあるが、誰でも手に入れられる程度の代物だ。
そこにオリジナリティというかアイデンティティというか、「その人ならでは」の価値が、ない。


パパになる事なんて、誰にでもできる。
しかしサーフィンを通じて人間存在の在り方を示せるのは、ギャレット・マクナマラのようなごく一部の選ばれた人間だけだ。

だから本来なら、ギャレットはサーフィンによって人類を鼓舞し続けるべきであり、凡庸なパパとしての幸せに閉じこもっていくべきではなかったのだ。
サーフィンによって多大な価値を創出できたはずのギャレットがそれをやめ、家庭に引きこもってしまうのは、人類規模で見れば多大な損失である。


恐らくそういう諸々に、僕は「いやな感じ」を抱いたのだろう。


特に僕の場合、僕自身(サーフィンではないが)芸術の世界に命を懸ける人間であり、芸術に命を懸ける苦しさから逃避するように愛欲に逃げた経験があるだけに、『100フィートの波』という作品が暗に発するメッセージ…「サーフィンに命を懸ける事よりも大切な事があるんだよ」「家族の幸福の方が大事だよ」に「それはちがうよ!」と思うのだと思う。


才能のある人間が、その道に命を懸ける。
その過程は得てして苦しい。
その苦しさと比べて、ハグやセックスで得られる快楽や多幸感、安心感はきわめてインスタントだ。

だからつい「ハグやセックスしてる方が幸せだ」と安直に結論付けたくなる。

でも中長期的に見ればやはり、「俺の生きる道はこっちじゃない」と気が付くのである。
「今にして思えば、俺はハグやセックスで得られるインスタントな快楽に逃げていただけだったんだな」と気が付くのである。



岡本太郎が幸福を「蹴飛ばした」のも、つまりその辺に因るのだろう。




「幸福な人生」と「意義のある人生」は、違う

そうしてアレコレ考えている内に、辿り着いたのが「幸福な人生と意義のある人生は違う」という論説である。

ここに至って僕はようやく、長年感じ続けていた「幸福への懐疑」にひとまず決着をつける事ができた。

また岡本太郎が安易な幸福を嫌悪した理由が一応ハッキリと理解できた。

調べてみると別に最新の発見でもなんでもなくて、割と昔っから専門家から指摘されてる事らしい。自分の勉強不足である。反省。




基本的には上記のリンク先などを読んでほしいのだけども、要は、

幸福な人生」というのは単に“自分個人の”欲望を満たそうとする人生。

一方で、「意義のある人生」とは他者に貢献する人生。

という事らしい。




前項のギャレット・マクナマラなどは正に前者だと思う。

確かに凡庸なパパに引きこもった事で彼は幸せになれたのだろう。
凡庸なパパである事には、特別な努力は必要ない。煩悶も必要ない。
サーフィンをしている時のような艱難辛苦は存在しない。
「動物的ニーズ」の全てを満たせる。
だからこそ気楽なのだろう。その気楽さゆえに、幸福なのだろう。
でもだからこそ、そこで終わりだ。


ギャレットの才能なら、サーフィンを通じて終生他者にエネルギーを分け与えられたはずなのに、彼はそれから降りて、家庭や友人関係という狭いサークル内で「幸福という富」を独占する事を選んだ。

これは「ある種の貴族階級」と言っていいと思う。

※ここで僕が「貴族」という単語を用いたのは、フランス革命から今日(分断の時代)に至るまでの人類史の現実と勿論関係している。

これこそは、岡本太郎が嫌悪し唾棄した生き方そのものであろう。

またこれはギャレットに限らず、家庭などの狭い幸福に逃げ込んだ個人全般に言える事だ。




この手の人間を敬愛する事はぶっちゃけ難しい。


だってギャレットは今や自分だけの幸福に没頭してしまって、もはや僕らに何かを与える気概がないのだから。

乾いた現実だけども、「自分に何かを与えてくれない他者」を、僕らはやっぱり、好きになり切る事はできない。

サーフィンを通じて人類に何かを与えてくれたギャレットを好きにはなれても、自分個人の幸せを貪るギャレットは最早僕の人生とは無関係だ。

それが現実だ。




「個」人の幸福を捨て、「全体」に懸けた偉人たち

イエス・キリストがなぜ人類を代表するカリスマになれたかって、やっぱりイエスが徹底して「他者に与える事」を志向していたからだろう。
イエスが自分個人の狭い幸福に安住しなかったからだろう。
なんせ最後には磔刑に処されるのだから(後に復活するけど、それはそれ)。


旧約聖書(出エジプト記)の預言者モーセにせよ、知ってる人は知っての通り、実は当初はちゃっかり結婚して、一般人としての幸福を謳歌していた。

モーセは内心では自分には特別な使命(エジプトで虐げられているユダヤ人を救う)があると気付いていたのだけども、その重圧に耐えかね、(ギャレット・マクナマラのように)平凡なパパの幸せに逃避していたのである。

しかしそんなモーセも、「燃える柴」(主)から「いい加減にしろ」とばかりに背中を押されて、最後にはパパとしての平凡で幸せな日々を捨てて、偉大なる予言者モーセとしての生涯を歩み始める。

※この辺の流れはセシルBデミルの『十戒』を筆頭に、リドリースコットの『エクソダス:神と王』などを観ると視覚的にも理解しやすい。
また一応付記しておくと、モーセはパパとしての平凡で幸せな日々を捨てたものの、最終的にはしっかり妻や子供達と合流して、家族仲良く出エジプトを果たす。なのでモーセの場合は割と個人としての幸福も満喫できたパターンと言える。

モーセの物語がこういったプロットを採るのはきっと、昔の人々も「幸福で安寧な一生」と「苦難と利他と情熱に満ちたカッコいい一生」が両立できない事を知っていたからだと僕は思う。
と同時に後者の方が中長期的には多くのものをもたらす事を知っていたからだと思う。

僕がはじめて出エジプト記を読んだのは丁度僕自身がモーセのように平凡な幸せに逃げようとしていた時期だったので、平凡な幸せを捨てて預言者の道を歩み始めるモーセを見て「あっっっ!!!(これ私のことだっっっ!!!)」と驚嘆した事をよく覚えている。


聖書物語に絡めるなら、映画史に残る大傑作『ベン・ハー』の主人公ベン・ハーもまた利他の英雄である。


新約聖書が「キリスト教を信じれば尽きる事のない情熱(生きがい)を手に入れられますよ」と再三にわたって強調する事と本文の内容をリンクさせると、色々と合点がいく。
「情熱と個人的幸福は相性が悪い」「個人的幸福を捨てれば捨てるほどに却って情熱は燃え上がる」という事だろう。

キリスト教が弾圧された往時のローマ帝国においてキリスト教が山火事じみた広がりを見せた事も、この点を理解すれば納得がいく。




一気に俗っぽい例を出すなら長渕剛が一部の層から絶大に支持されるのもまた、彼が自分個人のちっぽけな幸福よりもより大きな利他に命を懸けているように見えるからだろう。
長渕剛の歌を聴くと彼が彼なりに必死に苦しみぬいて生きて来たことがわかり、そしてその苦しみを歌を通じて人類にシェアしようとする彼の心意気を感じる。そこに、胸打たれるのである。
どこか虚勢じみた彼のファッションですらそうだ。
例え虚勢まじりでも、スターとして必死に歌い続ける彼の生き様に人々は自身を投影し、感動するのである。




いずれにせよ、英雄や偉人と呼ばれる人々の中に、自分個人の「幸福」などに浸っていた者は皆無だと言っていいだろう。
なんなら客観的には大なり小なり不幸にすら見えるのだが、だからこそ彼ら彼女らは高潔に映り、人々から敬愛されるのだ。


これは手垢のついた処世訓としての「あんまりにも幸福をひけらかすと他者から嫉妬されるから、それを見せないようにしましょう」「実るほど首を垂れる稲穂かな」(←個人的には大っ嫌いな言葉)的なアレコレとは別次元の話なのである。






―――といった感じで、書いてる内に長くなってしまったのだけども、要はまぁ、そういう感じである(どういう感じだよ)。


幸福な人生と、意義のある人生は異なる。

幸福というのはただ単に、自分個人の欲望が満たされた状態。自分ひとりが安心で安寧な状態。
自分の家族や狭い友人関係だけが幸福な状態。
痛みがない状態。
快楽と安心だけに満ちた日々。

そこに僕は耐え難い苛立ちと虚しさを覚える。


だから僕は、どちらかというと意義のある人生を送りたい。
シンドクて大変だけど、虚しさは覚えない人生。

愛する妻や子供をはべらせて「俺は幸せだ」と言えるような大人にはなりたくない。

極論、イエスキリストやモーセみたいに個人レベルでは思いっきり不幸なのだけど、全体に尽くしてるような生き方がしたい。
例えそれによって得られる満足感が幻想であっても。


それだけ。おしまい。