見出し画像

ただ在る、という事しかできない

人生については散々に煩悶してきたのだけども、結局突き詰めると「ただ在る」しかないのだろうなって思う。

人間の能力はこの宇宙を知るにはあまりにも矮小で、だから宇宙を知ろう知ろうとすればするほどに虚しいし、真実を知ろう知ろうとすればするほどに虚しい。

理性でごちゃごちゃと計算して小賢しく真実に肉薄しようとすればするほどに虚しい。


この世には所謂賢人と俗人がいて(ショーペンハウエルとかオルテガとかエドワードギボンとか、古今東西の賢人たちが散々に語り尽くしてきた“アレ”である)、俗人は(本文を読んでいる賢人はよくよくご承知の通り)現世の馬鹿馬鹿しいアレコレ(富だとか名声だとか保身だとかマウントの取り合いだとか)だけがこの宇宙の全てだと己の高慢さゆえに確信し、それを他者にも(己の高慢さゆえに)押し付け、狭小な生涯を終える。

賢人はそういったアレコレにウンザリしてこの世の真実を必死に追い求める。それで必死に沈思黙考してみたり世捨て人になってみたり、或いは過剰に社会に適応してみたり、孤独になったり社交的になったり、本を読み漁ったり本を捨てたりして、アレコレと煩悶に明け暮れる。


ここで僕ら賢人が陥りがちな問題が、理性の過信である。知性の過信である。
賢人とひとことでいってもやや賢人とひどく賢人の二種類があるわけであるけども、特に前者においては理性や知性を過信しやすい。

理性や知性、つまり頭でごちゃごちゃと屁理屈を捏ね繰り回していれば、それで完璧超人になれると過信している。頭の中でごちゃごちゃと屁理屈を捏ね繰り回していれば真実に到達できると過信している。

しかしそれは誤りである事は、歴史を顧みれば明らかなのである。
しかし凡庸な賢人は得てしてこれから目を逸らして、今日も思索に明け暮れる。

賢人の中でも更なる上澄みは理性と知性ですらくだらないという事に気付いてしまう。
例えば宗教の開祖などは(ブッダとか)得てしてそこに気づくし、一方で開祖の追従者はそこに気づかない(だから凡俗なエリート宗教者は必死に教理に明け暮れる事で真実に到達できると過信する)。


知性と思索の限界にすら気づく事の出来る賢人を真の賢人と呼ぶとして、知性の限界に気付いてしまった真の賢人はひどく絶望する。


この世は醜い。ここまでは凡庸な賢人も気づく。
しかしこの世が醜いからと言ってひたすら魂の研鑽に打ち込むような、それでもってこの世の暗黒を晴らそうとするような、理性や知性を過信した生き方も虚しい。
なぜなら知性といってもそれは所詮「ホモサピエンスの知性」なのであって、つまり所詮は動物の知性に過ぎないからである。
つまりそれは本質的には蟻の知性だとか猿の知性だとかと同義なのであって、ホモサピエンスの知性だけをやたらに神聖視するのは愚かなことなのである。虫だって思考らしきものをしているのだろうし、我々ヒトだって思考らしきものをしている。
良くも悪くも、虫と我々(ヒト)は同じ存在である。

蟻の生態とホモサピエンスの生態に共通項が見られるあたりからも、所詮我々ホモサピエンスも「地球上生命体」「動物」の一例でしかない事を痛感させられる。

我々は所詮ただの動物である。俗人も、賢人も、真の賢人もこの点では共通している。
四足により近い俗人はもとより、真の賢人も相対的には俗人よりは四足より遠いというだけで、動物は動物である。
PCがいくらスペックが高かろうがそれは「神」ではなく「ハイスペックなPC」に過ぎないのと同様に、いくら脳のスペックが高い賢人であってもそれは神である事を意味しない。真の賢人はただヒト(動物)という括りの中では比較的知能が高いというだけである。


凡庸な賢人はいつまでも魂の研鑽だの修養だの修練だの教養だの知性だの理性だのを無邪気に信奉し生きていられるかもしれないが、真の賢人は上の事に気付いてしまうので、途方に暮れる。

善く在りたいし、知的で在りたいが、所詮それは動物という括りの範疇を出ない。善く在る事と知的で在る事は、神になる事を意味しない。

所詮真の賢人であっても、この世を(真の意味で)変える事などできない。世界を変えられるなどと思いあがっていられるのは、真の賢人でない証拠である。
真の賢人ですら所詮はいち動物に過ぎないのだからいくら真の賢人が心を砕いてもそれは神が御業を行う(旧約聖書の神が洪水を起こすように)というより動物が必死に地上でジタバタしているだけなのであり、つまりそれは所詮「動物の生態の一部分」でしかないのであり、つまりそれは動物の域を出ない。つまり世界を、動物界を変えられはしない。

ならば一体我々は何のために存在しているのか?なぜ生きるのか?
なぜ自殺しないのか?
これがつまり真の賢人たちを古今東西に渡って苦しめてきた問いであり、それこそショーペンハウエルなりニーチェなり岡本太郎なりが「俺はこの問いがわかった!」とでも言いたげなのであるけども、彼らだって結局ソレは分からなかったようである事は、彼らの生涯を見ればなんとなくわかるし、彼らの著作を見ればなんとなく分かるのである。
真の賢人であるならその事も分かっていると思う。

古今東西の真の賢人たちの書物を必死に読み漁って真実に到達しようとするのであるけども、古今東西の賢人達の決死の熱文を読んでも尚、分かる事といえば「彼らですらどうやら真の答えには到達しなかったらしい」「結局本質的にはずっと同じところをグルグルしているらしい」という事だけである。


そういった諸々を総括して言える事といえば結局、「我々はただ在るしかない」という事なのだと思う。

我々はなんらかの物理法則によってただ生まれて、ただ在って、ただ消えていく。つまり泡沫のようなものだ。
泡沫に善悪だの正誤だのがないように、我々の存在にもまた善悪や正誤はない。
我々はただ在る。泡沫のように我々もまたただ在るのである。

風だとか光だとか波だとか花だとか草だとか蟻だとか鳥だとか蛇だとか猿だとか、それらと同様に我々もただ在る。
俗人にせよ賢人にせよ真の賢人にせよ、同様である。


そしてそれは無論「閑居を重んじるべし」「禁欲せよ」などという凡庸な箴言に帰結しない。
そういった虚無の中にあって尚、理性や知性(知識“欲”)を愛するという事もまた、賢人(という動物)たちにとっての「自然体」である。
本文で述べたような事に気づいた賢人の中には「だから生など無意味であり、だから隠遁しよう」「禁欲しよう」という方向に傾く人が多いのであるけども、僕としては虚無ゆえに自然体を貫きたいのである。

頭でごちゃごちゃと考えて「なら隠遁しよう」「なら禁欲しよう」などと考えるのは上に述べたように理性の過信の一種であり、我々も所詮は動物であるという事を忘却した高慢さだと思う。
そんな事よりも知的な動物としての自然体を重んじて、ただ(動物なりに)知的に在ればそれで善いのだと僕は思う。

人事を尽くして天命を待つ。
一生というのは詰まる所人事を尽くしていればそれで十分なのだと思う。
人事を尽くさぬままに頭の先っぽの方でゴチャゴチャと知的な思索に明け暮れて絶望して隠遁・禁欲に奔るのもなんだかくだらないのである。
知的な動物として生まれてきた以上はその(知性にどうしようもなく惹かれてしまうという)本能のままに、真の賢人としての自然体に身を任せて生きておれば善いと思う。



というのも、「その先に何かがあるのか、何もないのかを、我々は知らない」ためである。
確かにその先に何もないというなら何もしないのも一つの正解なのだろうが、その先に何もない(宇宙は無意味である)という事を我々は証明できていないがために、そこには常に「実は宇宙には意味がある」という可能性が残存している。
この可能性が残存している限りは、我々は常に「人類の歩みの先に何かがある可能性」に備えて知的労働に明け暮れるだけの意義を持つのだと思う。