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正しく背景を理解して、自分の意見を持つということ

SNS を見ていると、何か問題が発生したときにピーチクパーチク反応する人が散見されます。以前は私も鳴く側にいたので、さえずる人たちの気持ちもよく分かります。ただ、最近はそういった物事の良し悪しに関して文句を付けようという考えに至らないことが増えてきました。分かりやすい絶対悪だとしても、そこに至った背景、原因は何だったのだろうと思うと考え込んでいる自分がいます。

例えば、ある暴行傷害事件があったとして、その結果だけを切り取れば傷害事件を起こした人が絶対悪です。しかし、その犯人は被害者から何十年も辛辣に扱われていた積年の恨みが原因だとしたら何が正しいと言い切れないと思います。

とある結果だけを見て、その表面だけを見て非難したり正義を貫こうとする行為自体が、今は早計だなと考えています。

考える、という不思議な行為

最近「考える」という行為がよく分からなくなって、哲学書も含む書物や技術書などを読んで「思考」について考えるようになりました。自分の意見に至った考えはどのように生み出されて、何によって形成されたのかという疑問を持ったからです。

いまの私の理解では、知識を総動員して知恵を作る行為だと結論づけています。物事や問題に対して多面的に分析を行い、自分の意見や解決策を見つけていくことが思考ではないかということです。

様々な視点を持つことや思考のプロセスなどは知識を元に形成されていて、そこから自分の意見を紡ぎ出すことが「思考のプロセス」だと考えています。論理的に構造化して分析し、問題を発端とした自分の意見や解決策へと導いていく所作が「考える」ということなのかなという私の考えです。

問題とは何か

ところで、問題とは何でしょうか。問題とは誰しもが問題と認識しているわけではなくて、その人が「望ましくない結果」と感じたものが「問題」なわけです。他人からしてみたら問題でも何でもない可能性もあります。

ですから、まずその「問題」は、何が望ましくない結果となっているのか、何故、望ましくない結果となったのかを理解しないと、問題ですらないかもしれないわけです。

その問題が何故発生したのかについては、そこに至った原因を突き止める必要があります。その原因も分からずに問題かどうかも判断ができません。その問題だと感じられた結果が、どのように発生したのかという背景を正しく理解しない限りは、自分の意見として断ずることができないという考えに至りました。

その結果、SNS で騒がれるような問題を見かけても、一緒に断ずるような行為自体ができなくなったと言うことです。

個人的に、これは良かったことです。浅はかな考えを表に出さないという「沈黙は金」な発想もありますが、落ち着いて穏やかな大人が演じられるということ。コンプライアンスに引っかからないというメリットがあります。

これならモテる。異性からも会社からも。

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