2024/7/29週|人生の豊かさを増すための方法論について
最近ふと、
(もしかしたら、20代の頃の方が楽しかったのではないか..?)
という考えが頭によぎりました。
社会人の楽しさというものを20代の頃に自覚し、なんとなくその後も右肩上がりで楽しさが増している前提でいましたが、10 ~ 15年くらい前と今を言葉にしながら比較をしたことはありませんでした。
(まさかまさか。)
(あの頃より今の方が楽しいに決まっている、だって仕事も新人の頃に比べたらできることも増えたし、色々な経験をしてきた。住んでいる家だって社会人の最初の部屋より(ちょっとだけ)広いし、知り合いだって増えている。公私共に、あの頃より "持っている" ではないか)
もう一人の自分がすぐに反論をします。
年齢を重ねたもう一人の自分はもう過去に戻れません。今が一番充実していると信じたい気持ちから、反射的にそう考えてしまうのでしょう。
ここでは「楽しかった = 豊かだった」と同じ意味で記載しています。
(そのため、「もしかして、20代の頃の方が豊かだった、、🙄?」 という問いと読み替えていただいて問題ありません)
何が起きているのか?を整理する
冒頭の「もしかしたら昔の方が楽しかったのでは…?」という問いをなぜ持ったのか?ちゃんと考えたのちに、自分はどう捉えるのか?
そうした自分自身でも言語化し切れていないところにヒントをもらった本があったので紹介します。
『暇と退屈の倫理学』
同書の紹介については下記の記事が非常にわかりやすくまとめておられました。
したがって、自分は同書の中で印象に残った(ドキッとした)部分をいくつか抜粋・紹介する形とします。
『暇と退屈の倫理学』より
・ラッセルの主張によると、「人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になる」とある。
・人類は豊かさを目指してきた。なのになぜその豊かさを喜べないのか?
・豊かさが含むのは、金銭的な余裕と時間的な余裕がある
・豊かな人たちはその余裕を何に使ってきたのだろうか?ここでは「富むまでに願いつつも叶わなかった自分の好きなことをしている」という答えが返ってきそう
・では、その「好きなこと」とは何か?やりたくてもできなかったこととはいったい何だったのだろうか?
・そもそも私たちは余裕を得た時に叶えたい何かなど持っていたのか?
・ガルブレイスの主張によると、「欲望は広告やセールスパーソンの言葉によってはっきりする」「欲望は生産に依存する」
・ならば、「好きなこと」が消費者の中で自由に決定された欲望に基づいているなどとは到底いえない
・資本主義の全面展開によって少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。しかしどう使っていいのかわからない、何が楽しいのかわからない。
・資本主義はそこにつけ込む、文化産業が既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。そこで暇を消費させる。
・浪費と消費の違い:前者は物を受け取ること、吸収すること。限界があるので満足をもたらす。限界を超えて食物を食べることはできない。浪費はどこかで限界に達し、ストップする。
・これに対し、消費は観念論的な行為 by ボードリヤールであるので、消費するときには「物に付与された観念や意味を消費する」ということになる。これには際限がない。
・消費される観念の例として「個性」がある。しかし、そこで追及される「個性」がいったい何なのか誰にもわからないのが問題。けっして完成しないため、消費によって「個性」を追い求める時に満足に到達することはない。
・消費には尊敬や、名誉といった他の人が決めているもの(他人軸)や情報が該当する。
・暇の中でいかに生きるべきか?退屈とどう向き合うべきか?という問い
・どう暇と退屈と向き合っていくか?暇と退屈についての自分なりの受け止め方を磨くこと。贅沢を取り戻すこと、つまり浪費家になること。思考が強制されるような「物の受け取りをすること」。その物を楽しむこと。楽しむための能力を訓練すること。衣食住、芸術、娯楽など。
・総じて人間であることを楽しむこと(際限のない消費行動に陥らずに)
問いに対する答え(自分が感じたこと)
同書を読んで特に思い当たる節があってドキッとした部分を上記で紹介させていただきました。かなり重要な議論を色々と省略して記載してしまっているので、気になる方は同書を手にとってみることをお勧めします。
さて、上記のような考察・主張を読んで自分が感じたことをいくつか記載して終わりたいと思います。
①暇や退屈にどのように向き合うかについて:消費に陥らないように
この点については数週間前に書いた下記の記事の内容ともリンクするように感じます。
『暇と退屈の倫理学』でもハイデガーが登場するのでリンクする部分も出てくるのだろうと思いますが、特に同書における「他人軸による消費には際限がない」という部分です。
ここに対しての自分なりの向き合い方、スタンスは以前の記事に書いた通りかなと考えます。中道を往くという表現をしましたが、一定他人軸を受容しながら、時が経つにつれて他人軸に左右される側面を弱めていけるようにしていく、という考え方です。
参考までに以前書いた考え方のキャプチャを貼っておきます。
ここでより重要なのは「観念を消費している面がある」ということに自覚的になっておくことかなと思います。
②私にとっての浪費とは?というテーマと、経験が足枷になることもあることについて
同書によると、浪費の特徴は、贅沢ではあるが限界があるもの、です。
浪費、と言う表現は一見すると良いイメージがなく、むしろ浪費家などというワードと共にネガティブなイメージがあると思います。
しかし、同書では観念の消費ではなく、限界のある物の浪費をする状態になることが望ましいと主張します。例えばの例として、食事を単なるエネルギーの補給で終わらせるのではなく、味わう訓練をしながら楽しんでいく、などです。
冒頭で
(もしかしたら、20代の頃の方が楽しかったのではないか..?)
という問いを立てましたが、上記の話を読んでいく中で自分の中で腹落ちをする部分がありました。
例として、仕事と友人関係を用いて少し言語化してみます。
まず、自分としては仕事(労働)は浪費の対象と位置づけられると考えています。
人からの期待に過度に応えようとしたり、評価に一喜一憂するなどの側面が強くなりすぎると、「仕事(労働)の消費」になってしまうのでそこには注意が必要です。
しかし、そうではなく、自分なりの能力開発のプロセスとしてみると、仕事は毎日試行錯誤できる量や質に限界がある中で楽しみながら没入し、浪費する対象と捉えられる部分が大きくなるのではないかと考えます。
つまり、相対的に経験の浅かった20代の頃の自分にとっては現在よりも仕事を浪費の対象としての側面が大きかったのだろうと。
そのため、楽しさ/豊かさを感じる部分がより大きかったのかもしれません。
次第に経験が積まれ、スキルが身についてくると、浪費としての楽しみが減り(あるいは消費の面を勝手に大きくして)、消費としての側面のみが優勢になっていることに気づけていなかった、それゆえ冒頭の問いがよぎった時に何かもやもやしたのではないかと考えます。
これが
(もしかしたら、20代の頃の方が楽しかったのではないか..?)
に対する一つの答えです。
こうした整理をして、自分自身をチューニングしていけると、過去よりも現在がもっと楽しく/豊かになるであろうと希望が持てますね。
また、ここで「経験・学習することが足枷になることもある」というのは個人的には学びになりました。(新しい挑戦を一定持つようにする必要がある)
冒頭の問いに対しては、
他にも、浪費という表現が適切かはさておき、友人たちとの関係(贅沢であり、かつ時間的制約・限界がある)の変化も20代と現在ではあります。
20代の頃と比べると会う機会などが減っていることはダイレクトに楽しさと相関がありそうです。(会う機会を自らつくりにいく)
この辺りを考えていくと、人生における浪費の側面を増やし、豊かに生きるために自分に何が必要なのか?を具体的に落とし込むことができそうです。
おすすめの書籍ですのでぜひ手にとってみてください。
今週はこの辺りで。
お読みいただきありがとうございました🙇
📓この記事について
株式会社タイミーで執行役員CMOを務めている中川が、マーケティング関連の仕事をしている中で感じたことを綴り、コツコツと学びを積み重ねる『CMO ESSAY』というマガジンの記事の一つです。お時間あるときにご覧いただければ幸いです。オードリーのオールナイトニッポン 📻 で毎週フリートークしているのをリスペクトしている節があり、自分も週次更新をしています。
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