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【要約】『暇と退屈の倫理学』と『自分探しと楽しさについて』

こんにちは、白山鳩です! クルッポゥ!

マガジン『本を読んだら鳩も立つ』での本のご紹介です。


前回の記事はこちらです。↓↓↓


今回は、哲学者・國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』から、退屈と付き合う人生の生き方を、

小説家・森博嗣さんの『自分探しと楽しさについて』から、楽しんで生きるにはどうすればいいかを、

それぞれ探ってまいります。



『暇と退屈の倫理学』は内容が込み入っている上に長いので、

各章を1枚のスライドで見ていきます。


それではまいりましょう! 以下、ネタバレ注意です。


『暇と退屈の倫理学』序章

『暇と退屈の倫理学』は、その序章から、

「カタログの中から、なんとなく自分の趣味になりそうなものを送るような人生歩んでない?」

と煽ってきます。


08_02_驚き


スライドにまとめるとこんな感じです。


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何かに駆り立てられて「よっしゃー!」と走っているうちはいいですが、

目標達成すると燃え尽き症候群になってしまう、という感じですね。


過労・過労・アンド・過労の人生を送ってきて迎えた「老後の余暇」が、「自分の本当の願いだったか?」という問いでもあります。


そしてここでいう「バラ」とは、「本当の楽しみ」と読み替えることもできるでしょう。


さて、ここからの『暇と退屈の倫理学』の構成は次のとおりです。


第1章:「暇と退屈」の原理の説明

第2~4章:歴史的な見地から「暇と退屈」の関係を見ていく

第5~第7章:哲学的な見地から「暇と退屈」の関係を見ていく


第1章:暇と退屈の原理論

第1章では、「ウサギ狩り」という行為を通して、「欲望」の原因を紐解くとともに、人がなぜ気晴らしをするのかを見ていきます。


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鯛を釣りたい釣り人に、スーパーで買った鯛を渡しても喜んでもらえないのと一緒ですね。

「早起きして、なかなか釣れなくて、創意工夫の末、やっとの思いで釣れた!」

という苦しみにこそ人は興奮を求めている


逆説的ですが、「苦しみが無いと、苦しい」と普通の人は思いがちです。

「休みが欲しい! 休みを!」といっているビジネスパーソンが、

突然休日を与えられてもかえって手持ち無沙汰で苦しくなる……

そんな感覚でしょうか。


第2~4章:歴史的な見地での「暇と退屈」の関係


第2~第4章では、人類の歴史から、

「人がなぜ退屈するようになったのか」

「暇を楽しんでいたかつての有閑階級(=貴族)と現代人の違い」

「浪費と消費の違い」

を説明していきます。


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定住するようになると、これまで狩りのために使われていた探索能力が不要となり、人間はその能力を持て余して退屈するようになった、というわけですね。


こうして、「退屈する」という性質と付き合う宿命となった人間

その後、社会の発展により、「有閑階級」というものが生まれます。


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かつての有閑階級=貴族は、暇を見せびらかす存在でした。

「暇」な階級は一部に限られており、「暇」とは財産だったのです。

「暇だけど、退屈していない」というわけですね。


このような貴族の伝統を持たない現代人は、暇になると退屈する、というわけです。


さて、このような現代社会は「消費社会」でもあります。

現代人は、この消費社会において無限の退屈に陥りがちです。


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「消費」とは、他者から与えられる情報をひたすら追い続けることです。

そして、消費に覆われた現代では、

労働していようと「あー、忙しい、忙しい」という価値を消費し、

余暇であろうと「余暇、最高!」と、「余暇を楽しむ活動をする」という価値を消費しています。


そして、消費の対象は「情報」であるため、そこには際限がありません。

この「労働」と「余暇」で成り立つ人生をいくら消費しても、いつまで経っても退屈したまま、というわけですね。


第5~第7章:哲学的な見地での「暇と退屈」の関係

さて、第5~7章では、「退屈」について考察した哲学者・ハイデッガーの理論を援用しながら、「暇と退屈」の関係を哲学の見地で見ていきます。


ハイデッガーは、退屈には3つの形式がある、としました。

第1形式:「何かによって退屈させられる」

第2形式:「何かに際して退屈する」

第3形式:「なんとなく退屈だ」

この3つの形式は、『暇と退屈の倫理学』の後半の議論で非常に重要となっていきます。


まずは「第1形式」「第2形式」を見ていきましょう。


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「暇なときに退屈している」第1形式は、現代人の姿の1つとして先ほども現れましたね。

「暇を財産として見せびらかす」ようなかつての有閑階級の伝統を持たない現代人は、暇なときにはそのまま退屈してしまいます。


一方、「気晴らしをしているんだけど、なんか暇な瞬間もある……」というのが退屈の第2形式です。

このとき人間は、気晴らしをしているので、暇ではないはず。

だけど、気晴らしをしていながら、どことなく退屈してしまっているわけです。


そして、これら「第1形式」「第2形式」は、いずれも「退屈の第3形式」から生まれるのだと議論が進みます。


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定住生活により、退屈は人間の宿命となりました。

いつなんどきでも、「なんとなく退屈だなあ」と感じる可能性がある。

これが、退屈の第3形式です。


そこで気晴らしに出かけるわけですが、普通は心の奥底から常に「なんとなく退屈だ」という声が湧いては消えることがありません。


定住生活により、能力があり余ったがゆえに発生した「退屈」。

では、人間以外の動物は退屈しないのでしょうか。


ここで「環世界」という概念を引用しながら、

「そもそも人間は普通の動物よりも退屈しやすいのだ」

と議論は進んでいきます。


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「固有の時間・空間」である「環世界」を、人間は容易に移ろってしまう。

「動物のように」1つの世界に留まっていれば、退屈しないはずだったのに……。


人間はどうやら、退屈する宿命にあるようです。

そこでハイデッガーは、「退屈から逃れるためには決断せよ!」と説いています。

一方、『暇と退屈の倫理学』は、

「決断することは、『決断の奴隷』になることだ」

として、ハイデッガーを批判します。


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退屈するのは人間の宿命であり、正気だからこそ人間は退屈します

(=退屈の第二形式)


しかし、信仰や理念を信じ込むという決断をして思考停止した人間はたしかに退屈から逃れていますが、これは狂気の世界です

退屈から逃れる代償に、自由のない奴隷の世界に進んでしまっていると言えます。


では、狂気に飲まれた「決断の奴隷」にならないために、人間はどのようにして退屈と付き合っていけばよいのでしょうか。


『暇と退屈の倫理学』の3つの結論

ここでは、3つの結論が挙げられています。


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人間は「環世界」を移ろうからこそ、1つの世界に没入できず退屈するのでした。

逆を言えば、1つの環世界に没入した「動物」になれば、その瞬間は「なんとなく退屈だ」の声から逃れられます。

もちろん、いずれはその没入も終わり、また異なる環世界を移ろうことになるでしょう。

退屈の出現が止むことはありませんが、しかしそれにうまく付き合うことはできる、というわけです。


そのための人間らしさこそ、「楽しむ」、すなわち「思考する」ことだと、『暇と退屈の倫理学』は説きます。

与えられた情報を「消費」するのではなく、

与えられた物をそのまま受け止める。


「あそこのラーメンはうまいよ」と聞いて、思考することしに「たしかにうまい! なるほどうまい! おそらくうまい!」と情報を消費するのではなく、

自分の舌で味わい、「なぜうまいのか」を思考する楽しみは、やがて没入を生みます

この訓練を繰り返すことこそが、1つの環世界に没入する「動物になる」瞬間を待ち構える訓練にもなる、というわけですね。


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自分探しと楽しさについて

『暇と退屈の倫理学』は、

「楽しみ、思考する訓練をしよう」

ということを説いていました。


この「楽しさ」ということを掘り下げた1冊が、『自分探しと楽しさについて』です。


結局、お膳立てされた「楽しさ」をどれだけ試してみても、本当の「楽しさ」は味わえない可能性が高い、ということだと思う。

こういったショーケースに並んだ「楽しさセット」なるものを眺めて育った世代は、
あれも試した、
これもやってみた、
だけどどれも面白くない、
自分は何をしたいのかわからなくなった、
もっと本当に楽しいものはないのか、
と悩んでしまう。

雑誌を捲り、ネットを検索し、いつも楽しさを探しているのに、どうもぴんと来るものがない。


これはまさに、『暇と退屈の倫理学』による、

「カタログの中から、選ぶ趣味」

「与えられる情報の消費」

への批判と同じです。


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さて、『自分探しと楽しさについて』では、あまりに具体的な目標設定をしてしまう弊害を指摘しています。


誰かがなにかで楽しんでいる光景を目にすると、自分もまったく同じことをしてみたくなる。
非常に子供じみた思考というほかない。

(中略)

野球選手になるにはどうしたら良いか、
自分はそんなことはできない、
こうして、「できない」ことで自分は駄目だと決めつける。

「できなければ、もう楽しさはない」
「自分には生きる資格がない」というふうに考えてしまう。

もうそれしかない、と具体的な目標を決めてしまうと、たしかに実現は難しいかもしれない。
この傾向は、最近とても強いように思われる。
テレビを見て、「あれが食べたい」と思えば、大勢が同じ商品を買い漁る。
同じようなものなら、ほかに沢山あるはずなのに、それでなければならない、と決めつける。

その目標が楽しいと感じる理由は何か?
どこがどう楽しそうなのか?
という思考(つまり抽象化)をほんの少しでもすれば、
「それしかない」的な単純な行動はもっと減るはずである。


「自分」と「楽しさ」はほとんど同じ

『自分探しと楽しさについて』における「自分」と「楽しさ」はほとんど同じような意味合いで使われます。


「自分」と「楽しさ」について、ここまで考えてきたが、両者はほとんど同じものだと考えることができる。

特に、この本で書かれている両者の定義は、違いがないほど似ている。

これは、「自分」を、一般的な意味ではなく、
「楽しんでいる自分」という意味で使っているし、

また、「楽しさ」を、一般的な意味ではなく、
「自分から生じた楽しさ」という意味で使っているからだ。


『暇と退屈の倫理学』でも、与えられた情報の消費ではなく、自分自身で味わい、思考する大切さが説かれていました。

「情報の消費」とは、とりもなおさず「他人が与えた情報の消費」であり、そこには必ず他人が絡んでいます。


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『自分探しと楽しさについて』では、

『他者』に依存したもののわかりやすい代表格として、『勝負』がある

と指摘し、次のように説いています。


こういった勝ち負けの楽しさに明け暮れていると、人を負かさないと楽しめないようになる危険がある。

つまり、「人の不幸が楽しい」という感覚になる。

「あいつをぎゃふんと言わせてやりたい」
「あいつの泣き顔が見たい」
という歪んだ感情が育まれるだろう。

これは、はっきりいって「貧しい」精神である。


こうして、本当の楽しさには「他者」の存在は不要であることを突き詰めていきます。


逆に考えてみると、人にうまく話せないものの方が価値がある、ということになるかもしれない。
楽しいことは、人に話せない部分なのだ。

あれこれ説明して、わかってもらえないことがあったら、それこそ本当の楽しさだといっても良いだろう。

人に簡単に伝わるようなものは、せいぜい「楽しそう」程度のものである。

(中略)

「楽しさ」は、人に伝えるために求めるものではない。
「こんなに楽しかったんだよ」と言いたくなる気持ちはわかるけれど、少し抑えておくべきだし、人への伝達を意識すると、楽しさに没頭できなくなる。


せっかく楽しみに没頭し、「動物になる」ことができていた。

しかし、「第三者へ伝える情報だ」と意識してしまうと、その楽しさは途端に「消費」の対象となってしまい、人は楽しさへ没入できず退屈してしまう。

そんなことが言えるのかもしれませんね。


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以上、『暇と退屈の倫理学』から、退屈と付き合う人生の生き方を、

『自分探しと楽しさについて』から、楽しんで生きるヒントを、

それぞれ探ってきました。


ここまでご覧いただいたみなさんには、タイトルだけでは何のつながりもなさそうなこの2冊が、深いところでしっかりと関係していることが伝わったことかと思います。


日々、自分だけの楽しみを生きて、退屈を忘れる人生を送りたいものですね。


次回「本を読んだら鳩も立つ」では、梯谷幸司さんの『無意識を鍛える』から、「大風呂敷を広げて無意識を書き換える」にはどうすればいいのかを見ていきます。


お楽しみに。

to be continued...


#創作大賞2023 #エッセイ部門

参考資料

・國分功一郎(2015)『暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)』(太田出版)



・森博嗣(2011)『自分探しと楽しさについて』(集英社新書)






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