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「スキ」と「好き」と、これからと。

それは私にとってよくある、だけど簡単じゃない、嫉妬の気持ちだった。


 気が付けば、noteを始めて2か月が過ぎていた。まだ暑さが残る季節に、すぐに飽きるんじゃないかと思いながら、書き始めたものは、寒さが訪れようとしている今でも、なんとか続いている。スキをもらった数も500回を超えた。本当にありがたいことで、こんなにも、反応をもらえたことが今までにないような気がしていて、なんだかすごいなと、感心している。

 ツイッターでもよくあるし、noteを始めてからもやはり同じように思う。スキになってもらうのは、とても難しいものだと。そんななかで、私の、しかもこの壁と崖しかないような文章を読んで、スキだと言ってもらえるのは、とても、励まされるし、嬉しくなる。

 スキの数は、私にとって、薬でもあるし、毒でもある。そのハートの数に一喜一憂して、増えた時には大いに喜びを感じるし、逆に、少なかった時には、大げさに落ち込んでしまう。書きたくて書いているのだから、それを好かれようと読まれなかろうと、本当は関係ないはずなのだけれど、それでも、誰かの心に少しでも引っかかれるのは、嬉しいことで、するりと抜けおちてしまうように感じてしまうのは、いかにも悲しいことだった。

 そんな風に数字をいちいち気にしてしまう私は、同じころから始めた人の、スキされた数を見て、意気消沈してしまうのだ。

 私とどこが違うのかなんて、元々同じではないのだから、違いしかないのだけれど、それでも、比べてしまう。毎日更新されている、きちんと考えられていて、その人の内面を確りと映している、文章もまとまっている、特殊なアイディアがある、挙げだせばきりがないけれど、どれも私にはないもので。それは差がつくのも当たり前だよと思いながらも、なんとなく、重い気持ちでそのnoteを読むことになる。読まないことはできない。私だってその人のファンなのだから。

 数が多ければ偉いわけではない。だけど、数が多ければ、それだけ多くの人の、記憶の欠片になれるのだと思っている。

 スキをしたから覚えているわけでは決してないけれど、それでも、スキをするには、そのnoteを見ていないとできない、と自分では思っている。見ることは読むことで、そして知ることで、刻まれること。覚えていなかろうと、忘れようと、その記憶のどこかに、欠片として埋め込まれる。

 そのことに、これといって、言葉にできるような意味を見出しているわけではないのだけれど、やっぱり私は、スキをされると嬉しいし、その人の、どこかに、私の欠片が、私がいた証が、その人のどこか、片隅の方にでも、残されることが、とても特別に感じてしまう。

 もちろん読まずにスキをすることだってあるだろうし、好きだと思わなくとも、読んだよという意味でスキをする人だっている。誰もかれもが特別にはなれないし、スキの数だけが大事だとは思ってはいない。けれど、どうにも、気になってしまう。

 まして、自分が好きなnoteを書く人たちからスキをいただいたときの嬉しさは、どうにも言い表せなくて。返信を書くわけにもいかず、ただただ嬉しさに身を震わせて、にやけてしまうのだ。お礼をしたい。そして私もあなたが好きですと伝えたい。だけれど、その必要がないくらい、スキは、溢れている。



 スキが少なかったとき。私は悲しくなる。でも、本当は、悲しむ必要なんてないことも、知っている。だって、少ない、だけなんだ。スキだと言ってくれる人は、いるんだから。こんな私の、つたない文章の、その中でも、今一つなのであろう記事でも、読んでくれて、そして、なんとなくスキだって言ってくれる人がいるだけでも、とても嬉しいことなのだ。ただ、もしそれが、数のためだけのスキだとしたら、少し悲しいかもしれないけれど。でも、そうじゃないことを、わかっているから、こんな私でも、いいよっていってもらえているようで。

 ボタンを押すだけの、ほんの些細なことに、いろんな思いがつまっていたり、いなかったりして、やっぱり私は、いつでも、スキがついていると、嬉しくなって、ありがとうと言いたくなる。



 そして、スキがすべてじゃないことも、もちろんわかっている。

 ありきたりな台詞かもしれないけれど、本当は、スキをもらうために、書いているわけじゃない。書きたいものを、自由に書けることが、自分にとっては一番大事なことで、そのことをスキだと言ってもらえることはとても嬉しいことだけれど、スキと言われようとして、書こうと思ったことは、今のところ、まだない。

 私の記憶違いでなければ、ありがたいことに、スキが付かなかった記事はまだなかったけれど、Twitterで書いている詩では、いいねがつかなかったりすることも多い。それはそれで落ち込むのだけれど、それを書いたことを、後悔したことは、多分、ない。

 私は、私が書いた詩が、小説が、文章が、実のところ、大好きなのだ。

 自分の書いたものを、読み直すことがよくある。反省を込めて、ではない。ただ、なんとなく、読んでいたいのだ。これを、自分が書いたのだと。特別すごいものでもない、何の変哲もない、ただの文章だけれど、私が思って、書いて、生み出したものなのだと。そう思うと、愛しくて、仕方がないのだと思う。

 もちろんそれは自分が上手いと思ってるわけではないし、すごいと自賛しているわけでもないのだけれど。ナルシストだと言われればそれまでなのかもしれないのだけれど。私の生んだ、私の子どもたちのことは、やっぱり、どうしようもなく愛しくて、それを、見捨てることも、裏切ることも、どうにも、できないのだ。

 何百ものスキがあるわけでもない。何千のリツイートなんてあったこともない。周りを見回せば、素敵な言葉であふれているし、圧倒されるほどの作品も、驚くほど感じ入る記事もいくらでもあって。何かを書いた後に、それらを見ると、妬ましくて、羨ましくて、そして疚しくなる。そんな自分は恥ずかしいけれど、自分が選んで書いたものを、何かと比べて打ち捨てることはできなくて、むしろ、抱きしめて、慰められている。


 スキが欲しいからと、媚びるようなものは、書かないと思うし、技術的にそもそも書けないので。これからも、自分が自分に”好き”できるものを、書いていければいいと、そしてそれが、誰かの、スキを押すだけの理由を持ってくれれば、とても嬉しく、思うのでした。



 文筆乱れてお目汚し。失礼致しました。

 本城 雫

いつも見ていてくださって、ありがとうございます。 役に立つようなものは何もありませんが、自分の言葉が、響いてくれたらいいなと、これからも書いていきます。 生きていけるかな。