貴綱 みか

2018年6月22日母が亡くなり約20年の母の介護が終わりを迎えた。青天の霹靂の介護の…

貴綱 みか

2018年6月22日母が亡くなり約20年の母の介護が終わりを迎えた。青天の霹靂の介護の始まりから共に介護をした父も2007年に亡くなり、次第に安らぎの日常に変わっていった日々の記録。辛いことばかりでは決してない介護の世界を、ちょっとのぞいてみてください!

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別世界

朝、自室で目を覚ますと 部屋中が煙だらけで 真っ白になっていた! 火事だろうか!? 何が起こったかわからないが とにかく ただ事ではない! 慌てて飛び起きて 1階まで階段を降りていくと 自分の部屋よりも さらに真っ白の密度が濃い煙と 焦げた臭いのキッチンの中 父が「火事だ、火事だ」と呟きながら 箒で床を掃いていた キッチンのシンクには 焦げた炊飯器が放り込まれている どうやら炊飯器を ガスの火にかけてしまったようだった そこで父に大丈夫かと声をかけると 「〇〇のお

    • サイン

      特に気に留めることなく 過ぎていったささやかな出来事 それは もしかして 何か意味のある事 ではなかったのかと 後になってから思ういくつかのこと いつものように 静かに座って 会社で仕事を片付けていると トク、トク、トクと 自分の心臓の鼓動が感じられ そしてそれが段々と小さくなって 次第に途切れていくのを 時々感じるようになり 1度医者に診てもらった方がいいかもしれない 漠然とそう思いながらも 勤務時間中なので もくもくと手を止めずに 仕事を片付けた 別のある日には

      • うしろからこっそり

        いつもと少しちがう道を通って 近くの商店街まで行く途中 ある細道のところに差し掛かった時に よろよろと歩くようになった 今は亡き父が、転んだりしないか心配で 見つからないように、こっそりと 後ろから父を見守りながら 歩いた道だったことを思い出した 父の足腰が段々と衰えてきて 歩くスピードもゆっくりになり はたから見てもハラハラするくらい よろよろしながら歩いたり 自転車にも乗っていた時期で 近所のおばさんに どこかで転んだみたいで お父さんが血まみれになって帰ってきたよ

        • 認知症の現実

          先日 久しぶりに映画館で 認知症を扱った洋画を観た 認知症の人から見た現実は ミステリーのような ホラーのような つじつまの合わない世界が 認知症ではない 周りの人には理解されず 認知症の本人と 認知症の人の周りにいる人達との トラブルの要因となり そこから始まる悲劇の物語 そのパターンは 最近では食傷気味になるほど 見聞きをするが そのトラブルの要因への理解の不十分さや 向き合い方、扱い方についての 上手な解決策が みつけられずにいるようにも思える 認知症の本人

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        • それから・・・
          17本
        • 父の介護と永別まで
          13本
        • 序章 突然・・・
          6本
        • 母の介護 そして別れ
          25本
        • 母の在宅介護
          6本

        記事

          夫が変なんです

          まだ介護が必要になる前の いつ頃だったか はっきりとは覚えていないが 母がある時、急に 「夫が変なんです」と 言い出した 母が言っていたのを聞いたのか 母が何かの紙に書いていたのを 見たような覚えもあるが 「夫が変なんです」 そう言われても 私からみたら父親は 特にいつもと変わらず 何が変なのか 全く思い当たることもなく 母が今までそんなことを 言っているのを 聞いたこともなかったので 変なことを言っているな くらいにしか思っていなかったが 「夫が変なんです」

          夫が変なんです

          母の遺伝子

          叔母から 母の初婚の相手は 背の高い人だと聞いていたが 時間より少し前に 待ち合わせた場所に着いて あたりを見回すと それらしき人は見当たらなかった 待ち合わせの相手である 母の最初の子供の その人については 家にあったアルバムの中の 小さな子供の頃の写真と 名前については 母に送ってくれた その人自身が編集に携わった ある本から 知ったのだったかどうか忘れたが ネットで検索をしてみると それほど苦労もせずに その人の 連絡先が見つかった わずかばかりだが 母の相

          母の遺伝子

          罪悪感

          仕事以外で出かける たいていの 自分が楽しむための外出 友人とランチに行く ひとり旅をする ライブに行く ボディボードに行く 等々・・・ 約束をしたり 計画を立てる段階から 楽しみな気持ちと 介護が必要な家族がいるのに 放って出かけるという罪悪感は いつもセットになっていた もちろん 自分がいない時に 何かあっても問題がないように デイケアやショートステイや訪問介護は 必ず手配していたけれど 心の底から楽しいと思った瞬間に 介護が必要な家族の事が ふっと思い出されて

          ギリギリ

          精神状態を崩して 毎晩興奮して騒いで暴れて 手の付けられない状態になってしまった 母の入院が決まった時 父が炊飯器をガスの火にかけて 家じゅうが真っ白に煙った日から 毎晩1時間毎にアラームをかけて 何かやらかしてないか 父の様子を確認する日か続いたが 父が自力で立ち上がれなくなって 父の入院が決まった時 母が最初の入院で退院した日から また始まった 毎晩の母の興奮状態との闘いが かかりつけの内科の先生のおかげで 再入院が決まった時 ほっとした というより もっとギリギリ

          バナナ

          母の毎朝の朝食だったバナナ 母か亡くなってからは あまり買うことがなかったが 久しぶりに 朝食にバナナを食べようと思い スーパーで 何種類かあるうちの 少し高めの 美味しそうなのを選んだ しかし 亡くなくなった母に 毎朝刻んで食べさせていた時には 一番安いバナナしか 買ったことがなかったことを思い出し 自分で食べようと思ったら 美味しそうな高い方をと 無意識に選んでいた事に気づいて ハッとした 母の介護が必要になってからは 母の事を大切にして 仕事をしながらも わりと

          小学生の時のパジャマ

          小学生の時のパジャマ 機嫌がいい時に 認知症の母がよくそう言っていたのは 洗濯してもすぐに乾く 白地に色とりどりの 少し大きめの水玉模様の ポリエステルのパジャマだ もちろん 母が小学生の時から 持っていたものではなく 私が近所の大中で買ってきた パジャマの中の一つだから わりとポップで 一般的には おばあちゃんより 若年層向けのもので 母がどう思っていたかわからないが わりと明るい色合いの装いのものは 地味目の落ち着いたものより 母が生き生きとして見えるのが

          小学生の時のパジャマ

          無力な存在

          母の表情が乏しくなり 何もしゃべらないことも多くなってきた時に ふとした拍子に 少しでも表情がほぐれて笑顔が見れると 嬉しくなった 母のおむつ交換の時に おむつを取ったままベッドに座らせていたら 母が尿を漏らしてしまい ベッドの下まで垂れて 床まで濡らしてしまったが こんな格好のまま座らせておいて 身体が冷えてしまったのかもしれない 自分が母を世話して しっかり守っていかなくてはいけない と思った 母の心臓が止まり 蘇生措置を受け ICUに入院中に 薬で眠らされ意識もな

          つけ

          母の身体の 脚力 体幹 腎臓・・・ 見た目や 健診の数値で 少しずつ 衰えが増えてきて さらには 片手だけグーにしたまま 指を伸ばすことが 出来なくなってきて 無理に広げようとしても 痛がって広げられなくて お風呂上りなど 温めるながら ゆっくり時間をかけると やっと少し 握ったままの指がほぐれてくる 母の様々な身体の衰えを感じながらも 年のせいだから 仕方がないと 完治を目指すような治療を 積極的にはしなかったが 苦痛を減らしてあげたり 少しでも快適になるように

          父のあしあと

          ご近所の家まで 町会費の集金に出かけて 玄関のインターホンを鳴らすと 鼻にチューブを入れたおじいさんが 玄関の横の部屋のサッシを開いて 顔を出した 自分の名前と町会費集金と用件を告げると おじいさんは部屋の中を何かゴソゴソと探し始めて のど飴の入った袋を おじいさんが町会費を用意するまで これを食べて待っててと ニコニコしながら差し出した そして昔、うちの父が おじいさん宅にお邪魔して 歓談してお茶をごちそうになったと 話してくれたので 父がお世話になりましたとお礼を言

          父のあしあと

          鉄の扉

          インターホンを押して 名前を名乗ると 職員の方が鉄の扉を 内側から開けてくれる 母が入院した病院や老健 そして最後に入院したICUでも 母は鉄の扉の内側にいた 鉄の扉は 扉の外の世界で 生きるのが難しい人や 扉の外の世界の 有害なものから 守らなくてはならない人の ためのものだが 母が鉄の扉の内側にいることは 親しい人にも 容易に話せることではなかった

          帰ってきた

          母の出棺が終わり 車が火葬場へ向かう途中 母の通ったグループホームの前に続く 坂道の角に差しかかると グループホームの職員の方の姿が見えた 出棺から火葬場へ向かう途中に 故人縁の地に立ち寄る 葬儀会社のサービスで 10年近くお世話になった グループホームに立ち寄る時刻を 職員の方に知らせておいたので 母を乗せた車の到着を待っていてくれたのだ そして車がグループホームの前に停車すると グループホームの門扉の前には 総勢20名くらいの職員の方達や 通所されている方達の中には

          帰ってきた

          見知らぬ男の子

          母の出棺前 棺の中には 母が身に付けていたいくつかの私物と 葬儀会社から促されて書いた 母への手紙と そして 古いアルバムの中にあった 見たことのない 知らない小さな男の子の写真を入れた 知らない男の子が誰なのか分かったのは 私が高校生の頃だっただろうか 母はいますか?と どこかの男の人から電話がかかってきた時に 母に誰なのか尋ねると 母から 自分の子だと 聞かされたような気がする 母が父との再婚前 母の最初の結婚で 生まれた男の子からの電話だった アルバムの中

          見知らぬ男の子