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命の受容

三大欲求は
【人として】以前に
【命として】備わっているものだと僕は思っています。

食欲は
【人として何を食べるか】
という選択をする以前に
まずお腹が空いて何かしらを食べなければ生きていけないという話なのです。
それはもう【命としての営み】として
“食べる“があるのだと思います。

そのような➖命としての自分を受容➖する。
空腹になる自分を丸ごと受け入れる。
食べたくなる自分に罪悪感は要らない。
このような【大前提としての受容】が必要だと思うのです。

【命としての自分】をちゃんと受け入れてから
何を食べるか、
何をどれくらい食べるか
何を誰とどこでどのように
という【人としての判断】になってきます。

摂食障害になると
まず【命としての営み】である
【食べること】そのものを否定するようになります。
食欲の在る自分を受容できなくなる訳です。

➖“食べる“は“生きる“➖です。
生きながら“生きる“を否定するのですから、
それは大変に辛いと思います。
食べたくなる自分に罪悪感を持つ。
それは
生きている自分をまるで罪人として認識するような感覺だと思うのです。
ですから、
表目的には幸せになりたい
と思いながらも
心の奥では
罪深い自分は幸せになってはいけない
と無意識レベルで思い込む。
まるで
人生が罰を受けるための刑期で、刑執行としての人生のようになるのです。


僕は僕自身の性欲で
同じような感覺になりました。

性欲を持つ自分が受け入れられなかったのですね。
今思うと、やはりそれは
人としてのジャッジの前段階である
➖命としての自分を丸ごと受け入れる➖
という大前提になる行程を踏んでいなかったんです。

この行程を踏まないで
【人としての自分が性欲をどうするか】
という課題と向き合い、かなり混迷を極めました。
➖人としての判断は時に命を否定する➖


先日、意を決してソープに行ってきたんです。
表面的に見ると、僕は自分の性欲を受け入れられたと思っていたのですが、まだまだ受容し切れていなかったんです。

ですから、
お金がないから
時間がないから
女性が嫌がるから
➖人として間違っているから➖
などなどを理由につけて性体験から逃げていたんです。

やはり性欲に対する罪の意識が大変に強かった。
それはそのまま
➖生の否定➖
➖命の否定➖
として生きている自分を罰する形で現実を創り出しておりました。
罰しているのは
➖人としての自分自身➖
ただその一人でした。
➖人としての我が命の吾を否定➖
我が強かったのです。

ソープに行こうと決めてからもなかなか勇氣がでませんでした。だいぶ躊躇しながら逡巡し、ようやく予約。

予約してからも心臓はドキドキ。
そのドキドキとは罪を犯す感覺のドキドキ。
SEXを樂しみにするドキドキではないのです。
不安と罪悪感で胸の鼓動が早くなって落ち着きませんでした。

お店の待合室に着いてからも同じ。
なんならキャンセルしてこの場を去ろうかと何度も思いました。
やはり僕にとってSEXは罪深い行いとして今なお厳然と心にあったのですね。

そのような自分と向き合いながら時は経って入室。
嬢と話をする。
話のし易い方でした。

そして会話をしながらプレイをしていくのですが、プレイ自体には大した氣持ち良さは感じませんでした。
その時、瞬間的に
僕の愛を受け取る感覺
つまり
愛の感度
が鈍いのだと思いました。
それでも半年くらい日常で愛氣(まなき)を感じる練習をしていたからか、彼女の心意氣から愛氣を感じ取る事がかろうじてではあれど出來たんですね。
なのでフィジカル的な快感はあまり無くても、精神的な所で心地良さを感じ取りました。

そのようにして時を過ごす中で段々と彼女が愛おしく感じられるようになりました。

そして最後は彼女の中で射精して終えられたんです。

あれだけの不安と罪悪感の中でSEXして、僕の人生から見ると殆ど一瞬の出逢いの中で相手を好きになり、射精までするというのは、僕にとっては奇跡的な体験でした。


今振り返れば
この時の僕というのは
まず➖命としての自分➖を受け入れた。
それは命として在る自分の性欲を受容したということです。
そしてこの時、嬢という他がおりました。
その他に対しても命としてのありのままの自分を見せられたということ。
さらには、そのような自分を受け入れてくれた他がいて、そこでもう一つの受容が起きていたのです。
➖他による自分の命の受容➖です。

SEXは相手が必要ですから、
SEXを求める内面的自分を受容しただけでは
SEXという現実創造は実現しません。

これは➖生命の創造➖と同じ。
SEXとは赤ちゃんを創る行為でもありますから、一人の内面的な性欲の受容だけで性の話は完結しないのですね。
食欲も睡眠欲も一人で完結可能かもしれませんが、性欲に関しては他が必要となる。
少なくとも僕の性欲は一人による性体験ではなく、他とのSEXという形を求めていましたから、他が必要でした。

そして
そのような僕の性欲は
僕自身と相手により受容された。

この受容によりものすごい安心感が生まれたんです。
言語化すれば
『生きていて良いんだな』
という安心感になります。

➖生が肯定された➖感覺でした。

➖性の受容➖
により
➖生の肯定➖
が行われたのですね。

罪が取り払われた感覺。
罪が無くなって安心感を得たような感覺です。

そして【生きていて良いんだ】という罪の消えた安堵感の中で射精という快感に行き着いたと思うのです。

もう一度述べますが
肉体的には大した快感は無かったのです。
それは相手のフィジカル的な実力不足ではなく
僕の感度の問題ややはり内面の問題だったと思います。或いは、身体的な相性とか。
しかし
そのようなあらゆる肉体的な問題や課題をゆうに超えて、精神的な満足により射精という次世代へ命を繋ぐキッカケを生み出すことが出來たのです。
(※話の腰を折るようですが避妊具は付けております)

そしてその後に仕事に行ったのですが、いつもなら嫌々仕事に向かう中、不安や苛立ちなどいわゆるネガティヴ感情一杯なのですが、“生きる“安心感が持続しておりました。

確かにネガティヴ感情はありましたが、それは小さかったし、もっと言えば種類が違うようにも感じました。

まず大前提として
➖命としての安心感➖
【僕は生きて存在していても良い】
という自己肯定感がありました。
その大前提の上に仕事に対するネガティヴ感情があったように思います。

その前までは
仕事に向かうネガティヴ感情でさえ
➖生きている自分へのネガティヴ感情➖
として感じ取っていたと思うのですね。

生きる為に仕事へ向かう訳ですから。
お金を稼いで生活をする為に嫌々ながらも仕事へ向かっている訳ですから。
つまり
生を受け入れられていない自分なのに
【人としての義務感】から生の為に歯を食いしばって頑張っていた訳です。
それは大変辛いものでネガティヴ感情も殊更大きかったと我ながら思うのですね。
➖人としての義務として生きていた➖のです。


➖人として生きる➖
の前に、
大前提として
➖命として生きている➖
という根源的な所での自己受容。

その自己受容に
僕の場合は欲求(性欲)の在る自分
というのが深く関わっておりました。

現代の日本では
安心して食べるにしても
安心して眠るにしても
たとえ一人でそれらをする場合でも
お金がいる訳です。

そのお金とは他に渡すことで意味を成します。
食べるもお金を渡して食べたいものを買う。
眠るもお金を渡して眠れる所を確保する。
食欲も睡眠欲もお金を通して
他との関わりの上で成り立っていると言えます。

この度の僕の性体験もお金を渡して実現したものです。

この現代日本で命として“生きる“をするならば
人が用いるお金が必要ということになります。


お金そのものは悪者ではない。
そして本來ならば
お金を使わなくても
命としては生きられる訳です。
人以外の生き物はお金を用いません。
また今では一部かもしれませんが
人だってお金を用いずに生きている人もいる。
秘境の部族などですね。

お金の話を絡めて
ここから
➖人としての自分の受容➖
の話になっていきます。


長くなりましたので
続きは次に。



またねっ👋
チャオ😊🌳



➖癒やしとは生やし(いやし)➖

【癒されて生きられる】

祭統 白宇
SHIR㊉W

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