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で、そもそもみなさんは何のために生きてるんでしたっけ?
我々って、他人にあれこれ言ってる余裕があるような暇人だったかな?
ぜひとも本に載せたかった(そして載せた)話
私が最初の書籍「社会人のための楽器の継続と上達の手引き:練習の習慣化から、音楽性を深めるまで」の執筆に着手したのは、今からちょうど1年ほど前になる去年の12月でした。
自分の書き上げた本を改めて読み返すという機会は、実はそんなに多くありません。なんせ執筆期間中は来る日も来る日も原稿と睨み合いを続けるので、脱稿と出版の時点で既にお腹いっぱいです、もう結構ですありがとうございました、という感じになっているからです。
この本を久々に手に取ったのは、スマホを手にしながら「最近のSNSって揚げ足取りと罵りと嘲笑の応酬だよなあ、やだなあ」と思ったことがきっかけでした。こうした批判的な言葉の数々……というか単なる暇人のマウント合戦というか、そういう現代っぽい風景を見ているとき、この本の中で引用した、ある音楽家の言葉をふと思い出したからです。
この本の中には、同じ種類の何かを指し示しているように見える引用が2つ含まれます。
まずはひとつ目。イギリスのジャズギタリストで、フリー・インプロヴィゼーション(即興演奏)で有名なデレク・ベイリーという人物がいます。この人の残したとされる言葉に、ものすごいのがあります。それは短い一文で、「自分の演奏に対する評価も、非難も、賞賛も、一切無視すること」というものです。
もうひとつの引用は、20世紀アメリカの指揮者、レナード・バーンスタインのものとされる逸話です。音楽を学んでいる若い学生に「私は音楽家になれるでしょうか?」と問われたバーンスタインは、次のように答えたといいます。「なれない。なぜなら、それを他人に問うたからである」
痺れません? こんな言葉、並の感覚では出てこないでしょう。
私自身はフリージャズもクラシックもそんなに詳しくなくて、ベイリーやバーンスタインの作品も特別に好んで聴いているという感じではありません。でも、これらの言葉は常に記憶の片隅にあって、ときどき思い出したように取り出しては、頭と心を揺さぶってもらっているような気がします。
それ、構ってる暇ある?
おそらくですが、こうした音楽家の人たちは、優れた他の音楽家による指摘や意見というものの価値をまったく無視していたわけではないと思います。
たまたま他の人も楽器を手にしている場で、ある人が「こちらの弾き方のほうがこれこれの旋律が引き立つのではないか」とやってみせたりしたのなら、それは何かしら感じるものがあるでしょう。どのような芸術も、個人がゼロから創造できるわけではないので、歴史上の作品や思想からの影響、同時代の仲間やライバルとの相互作用はあって当然です。また、実際の演奏であれ言葉として出てきたものであれ、他者の内面からの表現に何かを「感じない」「動かされない」人が音楽家をやっているというのも、ちょっとありそうにない話です。
しかし、賞賛とか批判というのは、どこか違うんですよね。それは「言うだけ」なんです。言うだけ。自分でやってみせるということがありません。
「離れた場所にいる人のほうが物事がよく見える」といった話も一応はあるでしょう。しかし、特に何もやってない人がわざわざあれこれ言いに来て、その言葉にはこれまた何の責任も持っていないわけです。それって、耳を傾けるに値するようなことでしょうか?
とりあえず何かを批判しておけば、物事を知っているかのように見えるのですね。内容はこじつけでも何でも構いません、それっぽく見えるということだけが肝心なので。それで偉い人みたいに、賢そうに見えるわけです。そういう振る舞いを賢いと感じるのは、あまり賢そうなムーブでない気がするのですが、とにかく一定数の人はそう感じるようなのです。
議論をやめて、自分を生き始めないと
さて、冒頭で持ち出した楽器の本の話に戻りましょう。この本では、日常生活の中での無理のない練習の続け方とか、演奏技術のヒントなども当然扱っている一方で、やや抽象的に「主観に徹底しよう」というような話も出てきます。
つまり、客観的に合理的に考えることが重要である一方で、「自分はこう感じる」「自分はこうしたい」ということを何よりも重視しようということです。だって、そうしないと毎日の地味な練習なんて続かなくないですか? 楽器に限らず、仕事とか人間関係とか、大変なことなら何だって同じですよ。で、この世で価値のあることというのは、基本的に全部大変です。
この本の終盤に置かれた「第九章:ヒントと寄り道」には、「まったく主観的な、喜びと価値の感覚について」と題された文章があります。楽器を弾くということの幸せと、真剣にやってたら何かしらその人なりの哲学が出てくるのではないか、という話をした部分です。そこから少し引用してみます。
こうしたことが、何か演奏の役に立つのでしょうか? 私が今こうして話していることも、ひとつの精神論なのでしょうか? 音楽表現が感情というよりは個々の技術に基づいているということは、本書の中でも繰り返し強調してきました。だから、人としての深い感情がそのまま深い音楽性に繋がるのだと主張するつもりはありません。
それでも、あなたの中にある言葉にならない感覚には意味があります。それは本当に重要なことなんです。あなたは本当は何をやりたいのでしょう? あなたは何に感動して、何を伝えたいと思って楽器を手にしたのですか? 私は今、主観の話をしています。他人が何を評価するのかということはどうでもよくて、あなた自身が何に価値を感じるのかということです。
楽器を習得するということは、現実には地味でぱっとしない長い道のりであって、基本的にはお金にならない話です。それでも、あなたはそれをしたいと思っています。どうしてなのでしょう?
これもまた、楽器の話に限らないんですよね。私たちは毎日毎日毎日苦労して苦労して苦労していろんなことをやっていくわけですが、その苦労って結局のところ何のためなの? という根本的な疑問があるわけです。
いろいろ忙しくしていると言いながら、自分が本気でやりたいようなことは何もやっていないという場合があります。働いて生活を維持していくというのは誰にとっても大変なことなので、新しいことをする余裕がないのもそのまま本人が悪いというわけではないでしょう。私は自己責任論者ではないし、別に「やりたいことを仕事にしよう」のキラキラ主義者でもないので(私がフリーで執筆業をしているのは、単純に会社員みたいな働き方が体力的に厳しいという消去法的な理由からです)、とにかく簡単な話ではない、何も簡単でない、人にはそれぞれ事情があるのだ、ということは当たり前に理解しています。
しかし、それでもこの「結局は何のためなの?」という疑問は、誰にとっても「放っておいてはいけないタイプのもの」なのではないかという気がしてなりません。
現代ネット社会の話を最初にしたように、みんな人のすることにああだこうだ言いたがって、人の生き方を勝手にジャッジしたがって、ここで仮に「そういうご自身はどうなのですか」と問い返してみれば、まああまり立派な回答は返ってこないでしょう。そうして人のことを論評している間は、ひとまず自分自身の惨めさや生活の空虚さを見なくて済みます。
だからもう、そういう口論っていうのは本当にどうでもいいんです。年末になれば毎年「今年ももう終わりか、早いなあ」なんて言っていて、たとえば今これを読んでいるみなさんが働き盛りの社会人だとしたら、この繰り返しが残り50回もあるかないかというところです。それでゲームセットです。それがわかっているなら、無駄なことやってる場合じゃないですよ。
あなたとか私とかは、そもそも何のために生きていたんでしたっけ?
おまけ:もうすぐ出す本について
この記事の本文はここまでですが、最後に少しだけ次の著作をご紹介させてくださいね。
この冬に出版を予定している書籍「人生の意味のつくり方:幸せと自己肯定感のためのレッスン」では、今回のnoteで書いたような問いかけと提案をさらに掘り下げていくつもりです。執筆中の原稿の「はじめに」から、全体の構成を説明した部分を以下に掲載しておきます。
大まかな流れとして、この本では以下の四つのことを行いたいと思っています。カッコ内にも書かれているとおり、実際の章立てはもう少し細かく、全七章で構成されています。
① 行うべき仕事を知る:私たち自身の中にある「満たされなさ」を自覚し、誤った解決方法への期待を捨てる。本書の中心に据えた「人生の意味が他人の主張、指導、評価から与えられることはない」という前提を明らかにし、意味の感覚を自分自身の力で構築していくことの必要性を確認する(第一章「最初に捨てておくべきもの」、第二章「私たちはなぜ満たされないのか」)
② 新しいコンセプトを得る:人生を意味付けしていく上で核となる、いくつかの重要な考え方について知る。特に、進化の一例としての人間の性質、有限性とトレードオフの概念、心理的領域での問題解決の手順と原則など、あくまで現実世界の仕組みを理解して、実際的に人生上の課題に対処していけるようになることに重点を置く。また、成長の一般的なイメージである「身につける」「高める」を「捨てる」「外す」という観点に切り替える(第三章「意味は主観的な領域にある」、第四章「自己、ただひとつの道具」)
③ 実践へと移る:意味付けの根拠は自己の内側にあるが、外の世界で何かを「する」、他者と「関わる」ということなしに、人間性の内部が豊かになることはない。仕事、恋愛、趣味、それらを取り巻く人間関係など、日々の生活に存在する具体的なトピックに目を向けて、自分自身の人生の改善を進める(第五章「この人生で何をしますか」、第六章「他者という救い」)
④ それを行い続ける:達成と結果という思考の枠組みを捨てて、過程と変化という流れに身を置き、「それ自体としての意味」に徹底する(第七章「意味とは過程である」)
この本はnoteにて「試し読み版」も先行公開しています。春が来る前には正式刊行できると思うので、どうぞお楽しみに!
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