アイスクリームと脱走者/44


44.結婚のカタチは

 五人そろって会社を出たのは十二時半をまわっていた。文子叔母さんは「またね」と里中さんの肩を叩き、すでに美郷家の人間として扱っている。

 シェ・アオヤマでは個室に通された。

 テーブルにはフォークとナイフが整然と並んで、中央に白を基調としたフラワーアレンジメントが置かれている。窓に目をやると、チラチラと雪が舞っていた。

 野菜のテリーヌ、小海老のマリネ、自家製鴨スモーク。美しく盛りつけられた皿をあっという間に平らげてしまうのは、食べている間は会話に入らなくても許されるからだ。蕪のスープを飲み終えて顔をあげると、窓はいつのまにか白く曇っていた。

 料理が運ばれてくるたび、これがヒロセさんが目指したかったものなのかと思う。目の前の現実から逃げるように、うまし家やオフショアのことばかり考えていた。

 両親も兄も普段と違う取り繕ったような態度だったけれど、会食は和やかに進んでいた。雲行きが怪しくなったのは、わたしが赤い果実とチョコレートのムースにフォークを突き刺したときだ。

「マンションを借りて家を出るって本気なの?」

 素っ頓狂な母の声が部屋に響いた。外まで聞こえたのではないかとわたしはドアをうかがい、父が「母さん」と嗜める。母は居心地悪そうにモゾモゾお尻を動かしたが、兄はそれまでより強い口調で喋り続けた。

「バスが一日四往復しかしないような場所に住んでも、史緒だって慣れないだろう。車の免許も持ってないし。会社の近くで部屋を探そうかって話してるんだ」

 何件か目星はつけてる、と兄は言った。史緒さんは申し訳なさそうな顔をしたけれど、両親から目をそらさない。その態度をどう思ったのか、母は不満を隠そうともしなかった。

「そんなこと言って、一回家を出たら戻って来ないんだから。最初から田舎に慣れてしまった方が楽よ。マンション借りたって、家賃もバカにならないし」

 わたしはムースを口に入れた。舌は味わうことを拒絶し、なかなか喉を落ちていかない。

「史緒さんはどうなの」

 母の言葉が、実際には問いかけではないことくらい彼女にも伝わっているはずだ。

「はっきり決めたわけではないですし、二人でゆっくり話し合ってみます。ご心配おかけしてしまって、すいません」

 母はまた何か言おうとしたけれど、「まあまあ」と父が割って入った。

「結婚したばかりの時くらい新婚気分を味わってもいいんじゃないか? 子どもができたりしたら帰って来たらいい」

 父は穏やかな口調だったけれど、言っていることは母と正反対だ。それは、わたしには予想外のことだった。父はいつも「母さんはなぁ」と、最後は自分の意見を引っ込める。

 母は兄と史緒さんのことなどそっちのけで「お父さん」とヒステリックに声を荒げた。

「そんなこと言って。私のときはいくら言っても同居の一点張りだったじゃない。別にいいのよ、それで良かったって今は思えるから」

 父と母が結婚したときのことだろう。母の口からは同居するメリットとマンションを借りるデメリットが次々と出てきて、最後にひとこと「私だって二人で暮らしたかったわよ」と溢した。

 不満はまだあるようだけれど、母の表情には諦めが滲んでいる。言えば気がすむ人だから、と兄が言っていたのを思い出した。

 喋り尽くした母は、たしかに何か消化し終えたように見えた。勝手に当たり散らして、自分だけスッキリするなんて、とわたしは思う。

 ミサトが思ってること言ってくれたほうがいい、と波多は言っていた。波多は今、何をしているだろう。

「だからだよ」

 父の声が聞こえ、ハッと顔をあげた。

「後悔してたんだ。少しでもいいから母さんと二人で暮らしたかったなあって。嫁に来たときから祖父さんと祖母さんの飯作って、洗濯して掃除して、そんなんしても誰も褒めてくれるわけじゃないし。同じ会社で朝から晩まで顔つき合わせてても、二人の時間なんてこれっぽっちもなかった」

 兄も史緒さんも、両親の会話をじっと聞いていた。誰も皿に手をつけない。

「そういうものだったじゃない。あの頃はみんなそうよ。今はお義母さんに家事も任せっきり。私は仕事で早く帰れないし、史緒さんがいたらお義母さんに少しは楽させてあげられるでしょう? 千尋はバイトばかりで家のことなんて何もしないし、いつ家に帰って、いつ出かけてるんだか顔も見せやしないもの」

 思うように話が進められない鬱憤は、わたしに向けることにしたらしい。

「千尋」

 兄の目が、余計なことは喋るなと言っていた。


次回/45.母と似た人

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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