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アイスクリームと脱走者/45


45.母と似た人

 コンコンとノックの音がし、ドアが開いたと同時にコーヒーの香りが漂ってきた。わたしは何も言わず、ナプキンを椅子に置いて席を立った。

 トイレに座ると、怒りの代わりに涙がスッと落ちる。深呼吸し、部屋に戻ろうと通路に出たとき、カチャとドアの開く音がした。

「千尋ちゃん?」

 振り返ると、PRIVATEと書かれたドアから朝日さんが顔を出していた。ゆったりしたワンピースを着て、一段とお腹が大きくなっている。

「お客さんで来てくれたの?」

「はい。兄の結婚相手と、うちの家族との会食です」

「へえ。お兄さん、結婚されるのね。おめでとう」

 朝日さんのまとう空気が、以前より柔らかくなった気がした。実際にそうなのか、このドアの向こうの殺伐とした空気よりマシだからか。

「今日のムースも朝日さんが作ったものですか?」

 わたしは部屋に入りたくなくて会話を続ける。ううん、と朝日さんは首を振った。

「もう産休中。ギリギリまで働くつもりだったんだけど、思ってたより立ち仕事がきついし、匂いがダメなんだ」

「昨日、ブッシュ・ド・ノエルいただきましたけど。あれは?」

「あれもうちの店のパティシエに作ってもらったの。内緒ね」

 朝日さんはイタズラっぽく笑う。たぶん、ヒロセさんの心を捕まえているのはこの笑顔だ。

「朝日さん、体調は大丈夫なんですか」

「しんどいけど、医者は順調だって言ってた。今日も病院なんだ。母に車で病院まで送ってもらおうと思って」

 朝日さんは、窓際のテーブルで接客中の、五十歳くらいの女性に目を向けた。

「あの人、六十過ぎてるのよ。見えないでしょ」と、得意げな顔をする。

 スラッとした体に白シャツと黒エプロン。短く切った髪は黒く染められていて、還暦過ぎとは信じられない。その人は朝日さんに気づくと、笑顔でこちらに近づいてきた。

「朝日のお知り合いだったんですね」

 近くで見ると目元の皺は年相応のものだった。けれど、その皺は彼女の表情を輝かせる大切なパーツに見える。

「ヒロセ君とこのアルバイトの子よ」

「そう。じゃあ、ずいぶんお世話になってるんですね。これからもよろしくお願いします」

 わたしに優しく微笑んだその人は、着替えて裏で待ってるから、と朝日さんに言い残してPRIVATEのドアを開けた。

「お母さんと仲いいんですね。うらやましい」

 わたしが言うと、そんなことない、と朝日さんは首を振る。

「親子みたいな会話をするようになったのは、私がここで働き始めてから。子どもの頃は店と自宅が離れてて、両親はほとんど家にいなかったの。学校行事もほとんど来なかったし、旅行なんてせいぜい一泊で近場の温泉。この子には私みたいな思いさせたくないんだけどな」

 愚痴をこぼしながら、朝日さんは自分のお腹をさする。

「でも、不安だなんて言ってられないし。ずっと、母みたいにはならない、子どもとの時間を持てる仕事に就くんだって思ってたのに、なぜかこうなってる。好きなようにやってきて、それで母みたいになっちゃったなら、もう割り切るしかないのよね。最近そう思うようになったんだ」

 大人になってからは喧嘩もいっぱいしたけど、と朝日さんは笑った。口元の笑い皺は母娘でそっくりだった。

 部屋に戻ると、いまだに微妙な空気が漂っていた。

「今日は史緒を会わせたかっただけだから、もうそういう話はいいだろ」

 投げやりに言う兄に、場を取り繕う気はもうないようだった。

「お兄ちゃんだって、史緒さんがうちの会社で働いてくれたら嬉しいって言ってたじゃない」

 母はすっかり内輪向けの口調で、わたしは母の口から出た「お兄ちゃん」という響きに嫌悪をおぼえる。父は諦めたように二人のやりとりを見守っていた。

「家が事業をやってるんだから、嫁に来たら手伝うものでしょ。本当はそうしたほうがいいって分かってるんでしょ、史緒さん」

「全部自分の思い通りになるわけないじゃん。わがままなのはお母さんでしょ」

 つい口走っていた。火に油を注いだのは分かっているけれど、もうどうでもよくなっていた。

 母は、立ったままのわたしをじっと睨むように見上げる。

「都合が悪いといつも逃げてばっかりいる千尋には、お母さんの苦労なんて分からないわよ。勉強もお稽古ごとも、ちょっと挫折するとすぐ諦めて、自分で責任を背負うってことをやってごらんなさい。他人のせいにばかりしてないで。そんなだから自分の将来のこともちゃんと考えられないのよ」

「母さん」

 父の低い声が響いた。

「すまんな。二人とも」

 兄と史緒さんに頭を下げる父を、母は「やめてよ」と強引に起こそうとする。父は寂しげな笑みを母に向けた。

「史緒さん、情けないところを見せて申し訳ない。どうしようもない親だし、親らしいことがしてやれたかも分からない。それでもこの子と一緒にいたいと思ってくれるなら、どうか愛想つかさんで下さい」

 史緒さんはチラと兄と視線を交わしたあと、躊躇いがちに口を開いた。

「お義母さんの言われることも分かります。ご家族を大切に思ってらっしゃるのも伝わりました」

 史緒さんはキュッと唇を真一文字に結ぶと、顎を上げて母を見る。その毅然とした態度が、母と似ている。

「お義母さんの希望に添えるかどうか、今は何とも言えません。ただ、彼と一緒にいたいという気持ちは変わりません」

 母と史緒さんは真っ直ぐ目を合わせ、しばらくしてフッと視線をそらしたのは母だった。

「この話はまた改めてしましょう」

 史緒さんが満足げに「はい」とうなずく。

 史緒さんがうらやましかった。わたしのは負け犬の遠吠え。悔しくて、情けない。家族から逃げて、逃げる場所さえ見つけられず、自分がどうしたいのか分からない。

「千尋、座んなさい。コーヒーが冷めてしまったな」

 父の温かさで余計に惨めになる。

 ぬるくなったコーヒーに砂糖を山盛り二杯放り込み、グッと飲み干した。カップの底に、溶け残った砂糖がドロリとこびり付いていた。

 兄は史緒さんとともに祖母の待つ家に向かい、両親は仕事へと戻っていった。


次回/46.求めているものと同じものを

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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