アイスクリームと脱走者/9
9.離婚届は
「圭、何時に出る?」
「何時でも」
圭はのそっと立ち上がり、緩慢な動作で身支度をはじめた。寝ぼけたままトイレに入り、すぐ出てきたと思ったら洗面台の下を開けてトイレットペーパーを取り、またトイレにこもる。
これまで鉢合わせなかったのが不思議なくらい、圭はこの部屋に来ているようだった。
二人で大学へ向かい、大学生協で食べる物を買って学食の屋外テラスに落ち着いた。三人がけの丸テーブルに隣り合って座ると、たまたまゼミの友人が近くを通りかかり、手を振ってくる。圭に好奇の目を向け、含みのある笑みを浮かべて去って行った。
圭はそんなやりとりに気づいた様子はなく、テーブルに突っ伏したまま不機嫌そうにハァとため息をついた。
「朝からため息とか、年よりくさい」
わたしは圭を放ってタマゴサンドにかぶりつく。顔の向きを変えて、圭はわたしを見上げた。
「千尋、不倫してるんだって」
むせそうになった。圭の顔に、これといった感情は浮かんでいない。
「変なこと言わないでよ」
「冗談だよ。離婚してるんだろ、その人」
「彩夏に聞いたの?」
ヒロセさんの再婚の件を、彩夏はまだ知らないはずだ。昨日は圭がいたから話せなかった。
よっぽど朝が苦手なのか、圭は昨夜よりそっけない。返事もせず、むくりと体を起こしてメロンパンにかぶりついた。無言で平らげたあと、ようやく口を開く。
「彩夏が心配してんだよ。俺は関係ないけど」
「そんな話、いつしたの」
「いつだっけ。昨日も千尋がいびきかいてる時にそんな話した」
朝起きてから初めて見る圭の笑い顔は、からかうように歪んでいる。
「ヒロセってやつより、波多の方がマシだって、彩夏が言ってた。千尋といるときの波多はサワヤカ君なんだろ?」
「波多君は関係ない」
ヒロセさんの離婚が分かったとき、彩夏は「チャンスじゃん」とけしかけた。でも、それが冗談なのは分かっていた。
いくら本気になっても、ヒロセさんがわたしみたいな子どもを相手にするはずない。彩夏もそう思っていたから、あの夜わたしだけを残して先に帰ったのだ。
彩夏の”心配”が少し鬱陶しい。波多君のことをけしかけてくるのも嫌だった。
わたしが黙り込むと、圭は「ごめん」とつぶやいた。
「好きなら仕方ないよな。自分の気持ちに素直になった方が、後悔しない」
一般論でも語るように淡々としていて、圭の目元はさっきまでより優しかった。
「そうかもしれないけど、素直になって後悔することもあるじゃん。前の奥さんのこと、忘れてないみたいだし」
再婚する、と言ってしまえばいいものを、わたしの口はそれを拒否した。どう捉えたのか、圭は驚いたように眉をあげる。
「なら、千尋に忠告」
椅子を軋ませて腰を浮かすと、圭はわたしの耳元で囁いた。
「そいつ、たぶん離婚してない」
反射的に圭を見返していた。彼の顔はすぐさま遠ざかり、投げ出すように椅子に背を預ける。ギシッと音がした。
「どういう意味?」
「そのまんまの意味。彩夏がそいつの家で見たんだって。全部記入済み、判も押された離婚届」
「いつ?」
「千尋も一緒に行ったんだろ? そいつのマンション。離婚してから時間が経ってるのに、そこに離婚届があるということは、つまり提出してないってことだろ?」
「……書き損じ、とか」
「千尋がそう思いたいなら、それでいいんじゃない?」
頭にあの日の光景が蘇った。ヒロセさんのマンションで、彩夏は料理本をめくって、隙間から落ちた一枚の紙。
講義が終わり、学部棟からぞろぞろと人が溢れ出てきた。いつの間にかテラス席は埋まっている。
「行くか」
圭はリュックを背負って立ち上がった。そのついでのように、もう一度わたしの耳に顔を近づける。
「不倫、慰謝料請求とか気をつけろよ」
からかっているのかと思えば、ドキッとするほど真剣な顔で、わたしは動揺したまま立ち上がった。
花壇の向こうはごった返して、生協に向かう人の群れと学部棟へ向かう人の群れが交錯している。その人混みに波多君の姿を見つけた。
電話で話しながら、どうやら生協に向かっているようだった。声をかけるでもなく、わたしは束の間その様子を眺めていた。
気付かないと思っていた波多君が、不意に「ミサト」と片手をあげた。屈託ない笑顔で駆けてくる。
「じゃあ、俺行くわ」
圭の声が聞こえ、我に返った。波多君と入れ違うように圭は走り去り、さながら敵から身を隠す野生動物のようだ。
「ミサト、あの人と知り合い?」
波多君は圭の後ろ姿を驚いたように見つめていた。なんと答えるべきか迷っていると、彼は全然関係ないことを言う。
「あ、ゴメン。いまユカと話してたから呼び捨てになってた」
「べつに、ミサトでいいよ」
「俺も波多でいいよ。そういえばさ、高校のとき”ミサトさん”って呼ぶの一時期マイブームだったんだ」
「なにそれ? そんなに名前呼ばれた記憶ないけど」
「まあね。だから貴重な”ミサトさん”だったかも」
波多君は愉快そうに「アニメの」と説明を始めた。アニメに登場する”ミサトさん”が彼のお気に入りだったらしい。
「叔父さんちでDVD観たらハマっちゃって。そのあと部活んときに『あ、ミサトさんがいる』とか思ってた」
笑う波多君の肩が、機械じかけのように上下している。
高校のときはこんなふうに話せなかったなと思っていると、「ミサトとこんなふうに話すの、昔はありえなかった」と波多君が口にした。
「ミサトも観るなら叔父さんに借りてやるよ」
波多君は笑顔を浮かべたまま、圭が座っていた椅子に腰をおろした。
「ミサト、時間あったらちょっといい?」
波多君の誘いは意外だったけれど、うなずいて隣に腰をおろした。
年末にテニス部の同級で集まろうかってユカとしてたんだけど、と波多君は話を切り出した。
「バイト休めそうかな。どうせ朝まで騒ぐんだろうから、最悪バイト終わってから参加でもありだと思ってるけど」
「忘年会シーズンだし、わたしはバイト終わってから参加にしようかな。出てあげないと店長かわいそう。波多君の方は……あ、波多の方は?」
ぎこちなく訂正すると、ハハッと彼は笑った。
「年末の営業は初めてだから、どうだろう。もうクリスマスディナーの予約も入ってた。クリスマスに同窓会とか、ないけど」
「クリスマスかあ」
「ひとり者同士、バイトに励みますか」
波多君は笑ったけれど、わたしはヒロセさんの顔が頭をかすめて一瞬返事に詰まった。ヒロセさんとわたしに、クリスマスなんてないのに。
「あれ、ミサト彼氏いた?」
波多君は意外だという顔をし、そのあと小さく「あっ」と漏らした。
「もしかして、さっきのが彼氏?」
「まさか、ちがうよ。だって、あの人…」
次の言葉が見つからず、「彼氏じゃないから」と、わたしはおかしな日本語を口にした。
「波多、知ってるよね。あの人」
「あ、うん。学部一緒だし」
「じゃなくて、ジャージー先輩」
波多君が顔をそらし、わたしは強引に彼の視界に入り込む。「しまったな」と聞こえた。
「波多、陽菜乃先輩とつきあってたじゃん?」
返事を待っていると、赤とんぼが二匹、目の前を横切っていった。
「あの人、何か言ってた?」と、波多君はうかがうような視線をわたしに向ける。
「言ってた」
「なんて?」
即座に返ってきた声は思いのほか強く、わたしは「えっと」とたじろいだ。
「……波多の性格が変わったのは、圭のせいじゃないかって」
「ふうん」
彼は眉間に薄くシワを寄せ、チラリとのぞかせた不機嫌はわたしのせいなのか、圭のせいなのか。沈黙が降りる前に聞こえてきたのは、「西野さんのこと、圭って呼んでるんだ」という拍子抜けするような言葉だった。
「だって、彩夏がそう呼んでるから。それに、名字なんか知らないもん。ジャージー先輩だし」
「べつに、意外だなって思っただけ。それより、陽菜乃先輩のことは言ってなかった?」
”それより”とはなんだ、と心の中で文句を言う。やけっぱちな気持ちになり、昨日聞いた話を洗いざらい話した。
「圭が陽菜乃先輩にフラれたあとに波多が先輩と付き合いはじめて、波多とはなんかがあったからビミョーな関係なんだって。波多、圭となんかあったんだ」
「なんか、かあ」
「なんかって、何?」
わたしを無視して波多は黙り込んでしまった。
「別に話したくなかったら話さなくていいからね」とわたしが言うと、ハッを顔をあげる。波多の目元がクシャッと緩んだ。
「サンキュ、ミサト。また気持ちの整理がついたら話すかも」
そろそろ行かないと、と立ち上がった波多君は、思い出したように「あと一つだけ」と、わたしを見下ろす。
「西野さんって、今も陽菜乃先輩と会ってるのかな」
「さあ、わかんない」
「そっか」という呟きは、どこか吹っ切ったような響きがあった。そのまま「じゃあ」と、彼は足どり軽く走り去って行った。
それからしばらくして、奏さんがオフショアに異動になった。うまし家のホールチーフには奏さんの次に古株の美月さんが就き、オフショアの学生アルバイトが二人こっちに来ることになった。そのうち一人は波多君だ。
ヒロセさんはオフショアにいることが多くなり、顔をあわせることはほとんどなくなっていた。店長が意図的にそうしているのではないかと勘ぐってしまうくらいに。
わたしは好きな人を探すどころか、一夜の交わりを忘れられないまま引きずっている。それはたぶん、圭のせいだ。
――そいつ、たぶん離婚してないって。
あの夜のわたしは、朝日さんの身代わりだったのだろうか。
次回/10.学祭前夜に
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アイスクリームと脱走者【完結】
長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。
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