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アイスクリームと脱走者/10


10.学祭前夜に

 十月、最後の金曜日。街路樹はすでに色づきはじめていた。

 近づく冬から逃れるように、うまし家には浮かれた空気が漂っている。大学祭の前夜、テーブルを埋めつくしているのは学生客だった。

「奏さん、そこのケース裏口に持ってってもらっていいですか?」

 すっかりオフショアの人になってしまった奏さんが、久しぶりにヘルプに来ていた。前夜祭を理由にバイトを休む学生が何人かいて、残ったスタッフはてんてこ舞いだ。奏さん一人がニコニコとご機嫌だった。

「はいはーい」軽い返事をして、ひょいとビールケースを持ち上げる。

「千尋っち、人使い荒くなったよね」

 奏さんは鼻歌交じりにキッチンを出ていった。

 わたしはひっきりなしに戻ってくるジョッキを洗浄機に入れながら、チラと後ろを振り返った。今のやりとりは、店長にも聞こえていたようだ。

 なかなか手抜きが上手くなったじゃないか。店長の目がそう言っている。わたしはプイと視線を外し、洗浄機をオンにした。

 ホールから「ありがとうございましたー」と彩夏の声が聞こえ、数人のスタッフの声が続く。わたしも洗い場から声をかけた。

 キッチンやってみたいか、と店長に言われたのは三週間ほど前。

「興味ないか?」と問われ、「ちょっとは」と答えると、そのままキッチンに連れて行かれ、慣れない仕事にヘトヘトになった。仕事を終えてぐったりカウンターに突っ伏していると、異動前だった奏さんが「おつかれ」と隣に座った。

「千尋ちゃん、キッチン楽しそうだったね」

「疲れました」

「ホールの方がいい?」

「わかんないです」

「千尋ちゃん、キッチン向いてると思うよ」と言ったのは美月さんだった。

 美月さんはあまり口数が多い方ではないけれど、思い立ったようにスタッフ全員を連れてカラオケに行ったり、朝まで飲み明かしたりする。そして、みんなを放って一人ちびちび日本酒を飲む女侍みたいな人。

「千尋ちゃん、センスあるじゃない。そういうの料理には大事でしょ? わかんないけど」

 美月さんはそう言って、わたしの描いたメニューボードを指した。

 そんなやりとりがあり、今ではホールとキッチンの日が半々くらいになっている。ただ、ヒロセさんがいる日は必ずホールだ。

 ヒロセさんがうまし家にほとんど顔を出さなくなって、料理に関することは最年長の隆也さんに任されていた。店長が隆也さんにどう話したのか知らないけれど、隆也さんはわたしに新しいことをさせてくれようとする。
 
「千尋ちゃん、大山鶏焼けるから、皿」

 隆也さんの声に「はい」と返事をし、ストーブの端で温まった皿を手に取った。下拵えした野菜で皿のまわりを彩ると、隆也さんが中央に肉をのせてソースで円を描く。隅に飛んだソースを拭いて、声をかけた。

「大山鶏できました」

「はーい」

 倉庫から戻っていた奏さんは、満面の笑みで皿に手を伸ばした。

 夕方から一気に満席になり、ずいぶん賑やかだったけれど、ひと通りオーダーが出尽くしたキッチンは間が抜けたように落ち着いていた。洗い物だけが次々に返ってくる。

「千尋、八番のオーダー行ける?」

 ホールからのぞき込む彩夏に「分かった。出る」と返した。エプロンの汚れをチェックしてホールに出ようとしたところで、店長に呼び止められた。

「千尋、お客さんの出入り増えそうだから、しばらくホールで」

「はーい」

 通路に出たところで波多君に出くわした。

「おつかれ、ミサト。遅くなった」

「あ、うん」

 驚くわたしに構うことなく、彼はキッチンに声をかけた。

「おはようございます。すいません。遅くなりました」

「おう、わるいな波多。急に無理言って」

 店長とのやりとりを背後に聞きつつ、わたしは八番テーブルへ向かった。

 オーダーを済ませて個室の片付けをしていると、襖が開いて波多君が顔を出した。「すげーな」と部屋を見回し、手近なところに手をつける。十五名の団体が帰ったあとのテーブルは食器とグラスの山だ。

「ねえ、波多。今日シフト入ってなかったよね」

「六時半くらいに店長から電話あった」

「学祭前の金曜日を甘く見てたのかな。急に忙しくなったから。このあと入れ替えで予約入ったみたいだし」

「まじかー」

 片付けたテーブルから新しいお客さんで埋まっていき、ひと息つくころにはラストオーダーの時刻だった。わたしは看板をしまいに外に出た。

 ほてった肌に夜風が気持ちよく吹きつけ、聞こえてくる店内の喧騒が遠く感じられる。メニューボードを片付けていると、背後から話し声が聞こえて振り返った。

 四、五人の学生らしい姿。楽しげに話しながら、一人がこちらを指さしている。見たことのある顔だった。向こうもわたしに気づいたのか、スキップしながら駆け寄ってくる。

「すいませーん、五人なんですけどまだ大丈夫ですか? ドリンクだけでもいいんですけどー」

 波多と一緒にいた、ボランティアサークルの女の子だった。以前会った時と印象が違うのは、お酒を飲んできたのかもしれない。

「ドリンクはまだ大丈夫です。料理ができるか確認しますので、どうぞお入り下さい」

 彼女は後ろの連れに向かって「いけるってー」とピョンピョン跳ねて手を振った。

 彼らはちょうど空いていたカウンターに横並びで座り、例の女の子は一番奥の席に腰をおろした。カウンターの中をきょろきょろと見回している彼女におしぼりを渡すと、「あのぉ、波多センパ……」と言葉を途切れさせ、そのあと満面の笑みで手を振った。

「わーい、波多先輩。来ちゃいましたー」

 波多がカウンターに入ると、他のメンバーからも「おー、おつかれ」と声があがる。

「波多先輩の働いてる姿、新鮮」

 注文をとる波多に、彼女は鼻にかかった声で喋りかけた。頬杖をついて波多君を見つめ、オーバーサイズのニットの袖口から指先だけがちょこんとのぞいていた。

「お前ら酒のんでていいのかよ。準備すすんでるのか」

 生ビールをつぎながら、波多がぶっきらぼうな口調で言う。どうやらサークルの人たちとは気安い仲らしい。

「今まで頑張ってたんだから、一杯くらいいいだろ。波多が逃げ出さないように迎えにきてやったんだ」

 まだ準備の途中なのだろう。わたしは波多に任せて奥の片付けに向かった。カンパーイ、とグラスの合わさる音が響く。

 閉店時刻の十一時半をまわり、カウンターの客だけがダラダラと飲み続けていた。ホールはほぼ片付いて、あとはモップをかければ終わり。キッチンにはまだ洗い物があふれている。奏さんと一緒に洗い物を手伝っていると、わたしだけ店長に呼ばれた。

「千尋ちゃん、波多とホールの片付け交代してやって。あいつ、あがらせるから。無理言ったし、ビールの一杯でも奢ってやらんとな」

 波多君からモップを受けとり、カウンターを横目に見ながら掃除をはじめた。早く帰ればいいのにと思う。倉庫に向かう途中で、通路の向こうから波多君が歩いて来た。

「店長がビールおごってくれるってさ。ラッキー」

 すれ違いざまピースサインを出しカウンターへと向かう波多の姿を目で追っていると、波多先輩こっち、と彼女の声がした。

「店員さんお願いしまーす。ミサトさーん」

 妙に親しげな波多は、アニメの”ミサトさん”を重ねたに違いない。

「何?」

「ビール入れてよ、ミサト」

「自分で入れたら?」

「もう座っちゃった」

 レジ締めをしていた店長が、笑いを堪えるように口を挟んできた。

「入れてやれ。グラスは千尋に任せる」

「じゃあ、これ」ショットグラスを手に取ると、店長は声を出してわらった。

 冷蔵庫からジョッキを出し、生ビールをつぐ。カウンターの視線が、琥珀色に満たされていくジョッキを見つめている。

「ごゆっくりどうぞ」と、波多の前にジョッキを置いた。

「サンキュ。店長、ごちそうになります」

 ゴクゴクと喉を鳴らし、一息つく。コーヒー牛乳の紙パックを潰したように、波多は顔をクシャッとさせて笑った。あの頃よりも、その笑顔は少しだけ憂いを帯びているように見えた。

 着替え終わって顔を出すと、カウンターの客がようやく帰り支度をはじめたところだった。波多はわたしを見つけると、サークルの友人から離れてこちらに来る。頬のあたりがほんのり紅く染まっていた。

「波多の酔ったとこ、初めて見るかも」

「そうだっけ。それよりミサトサン、家まで送ってくんない?」

「波多、学祭の準備あるんじゃないの?」

「もう終わってる。他のメンバーは帰ったみたい。あの子に引っぱられて来たって」

 波多がチラと目を向けたのは、例のあの子だ。

「みんな近くのマンションで雑魚寝するらしいんだけど、俺は帰って寝たい。シャワーも浴びたい」

 視界の端で彼女の様子をうかがった。隣の人と楽しそうに話しているけれど、チラチラとこちらに目が向く。

 わたしは彼女の恋路をジャマしたいわけでも、波多を取り合いたいわけでもない。かといって、うまくいくようお膳立てするつもりもなかった。

「千尋ちゃん。波多が家でグッスリ寝るのと、ぎゅうぎゅう詰めのワンルームで雑魚寝するの、どっちがいい?」

 ひょいと顔を出してたのは奏さんだ。

「家で寝るの」と、波多が右手をあげて即答する。

「千尋、送ってあげなよ。眠そうだし、その人」

 遅れて姿を見せた彩夏は、どこから聞いていたのか知らないけれど波多の味方だった。彩夏はわたしと違って色々お膳立てしたいらしい。

「わかった。送る」

 もし波多に恋愛感情を抱いていたら、わたしは送らなかったかもしれない。理由はわからないけど、そんな気がする。「ラッキー」と喜ぶ波多に、トキメキも感じなければ、ひとカケラの緊張もおぼえなかった。

「千尋っち、送り狼にならないようにね」と、奏さんが言った。

「実家だから」

 即座に反論したわたしの言葉は、波多の声と重なった。たまたま通りかかった店長が、「ハッピーアイスクリーム」と謎の言葉を残して去っていった。

 例の彼女は「波多先輩も行きましょうよー」とずいぶん喰い下がっていたけれど、引きずられるようにして夜の闇へ消えた。遠ざかっていく彼女の、思いのほか汚い言葉が夜の街にこだました。


 駐車場までの夜道を、わたしは波多と並んで歩いた。学生の浮かれた声が聞こえ、次第に遠ざかっていく。高揚感がそこかしこに降り注ぎ、体の中に染み込んでいくようだった。

 ゴーッという低音につられて空を見上げる。点滅する光に目を奪われ、躓いてたたらを踏んだ。あっと思った瞬間には腕を掴まれていた。

「ミサト、何もないとこでこけんなよ」

 その手はすぐに離れ、入れ替わるようにヴヴーと振動音が響いた。波多は慌ててポケットからスマホを出したけれど、画面を確認してそのままポケットにしまう。

「出ていいよ」

 わたしが言うと、「いい」と振動音をさせたまま歩き始めた。その音は、二十回ほど鳴り続けて切れる。駐車場に着いたときにまた着信があり、波多君はやはり電話をとらなかった。

「車の中で待ってるから、かけ直したら」 

 運転席に乗り込むまえに言うと、波多は助手席側のドアを開けたまま少し考えていた。

「やっぱり、いい。電話、さっきの子だから」

「山名さん?」

 わたしが口にしたのは、会話から聞きかじった彼女の名前だ。波多は「うん」とうなずいて車に乗り込んだ。わたしがエンジンをかけると、チラと横目でこちらを見る。

「心配しなくていいよ」彼は言った。

 ”心配”の意味をどう捉えていいかわからない。

「あの子、波多のこと好きだよね」

 波多が「うーん」と唸っているうちに、わたしは車を発進させた。路地を抜けて、突き当たりの点滅信号で一時停止すると、そのタイミングを待っていたように「そういうんじゃないよ」と波多はつぶやいた。

 バックミラーを確認し、ブレーキを踏んだまま隣を見る。

 波多はほてった頬に手を当てて、「海、行こうよ」と口にした。泣いているように見えたのは、きっと光の加減だろう。



11.左手の傷を隠す

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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