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アイスクリームと脱走者/43


43.猫をかぶる

 朝起きると空気がピンと張りつめていた。部屋の中でも吐いた息が白い。

 ベッドから起き出して庭先をのぞき込むと、兄の車が出ていくところだった。両親の車はすでになく、空は憎らしいほど青く澄み渡っている。

 祖母は「洒落た店は落ち着かん」と留守番を決め込み、そのせいと言うわけでもないけれど、兄の婚約者は今夜家に泊まることになっている。

 昨夜バイトを終えて家に帰ったとき、風呂上がりの兄が「彼女明日泊まるから」と言った。何から何まですべて事後報告で、都合のよく運転手として使われることに多少苛立ちを感じている。

 駅裏に車を停めて待っていると、運転席の窓がコンコンと叩かれた。ベージュのコートにグレーのマフラーを巻いた、大人しそうな女性だ。彼女は緊張した面持ちでペコリと頭を下げ、窓を開けると「美郷さんですか?」と不安げに聞いた。

「里中史緒さんですよね。初めまして。妹の千尋です。兄がお世話になってます」

 兄の恋人で、しかも年上だと聞いていたからどんな女性が来るのかと身構えていたけれど、第一印象は予想が外れた。猫を被っているのかもしれないけれど、わたしも人のことは言えない。


 里中さんを乗せて両親の会社へと車を走らせた。事務所に顔を出すのは高校以来。
 
「お父様に会うのはお見舞に行ったとき以来です。お母様に会うのは初めて」

 途切れそうになる会話を取り繕うように、里中さんが言った。

 父が入院していたのは二年前。思いのほか長く交際していることに困惑し、わたしが「あんな兄でスイマセン」と口にすると、彼女は控えめにフフッと笑った。

 会社の門を入ると、小さな事務所と倉庫が併設されている。景色は変わらないけれど、すべてが色褪せて見える。

 緊張しながら事務所のドアに手を掛けたとき、「あら」と明るい声がした。振り返ると、茶封筒を小脇に抱えた文子叔母さんが立っていた。

「久しぶりねえ、ちーちゃん」

 平安美人の文子叔母さんは、ここの従業員だ。

「ちーちゃん、ずいぶん綺麗になったわねえ。見違えた。こちらがお兄ちゃんのお相手? はじめまして」

 寒いから早く中に入りなさいと、叔母さんはドアを開けてさっさと中に入っていく。

 応接スペースの脇にストーブがあり、薬缶がシュンシュンと湯気をたてていた。わたしは「お手洗い借りるね」と勝手知ったる事務所を奥へ向かう。

 給湯室を抜けてトイレのドアを閉めるなりため息が漏れた。小窓を少し開けると倉庫が見える。兄と両親と、数人の男性がなにやら話をしていた。

 トイレを出たあと、パソコンに向かって仕事いる一人のオジサンに声をかけた。

「清水さん。お茶、勝手に淹れちゃっていい?」

「いいよ。ワシのも淹れてくれるか?」

 うん、と返事をして給湯室に戻った。

 清水さんは父の高校の同級生で、幼い頃から何度も顔を合わせている。淹れたお茶を清水さんの机に持っていくと、ありがとう、と皺の増えた顔をクシャクシャにして笑った

「昔みたいにシミちゃんて呼ばんようになったな。べっぴんさんになったし」

「ムリにお世辞言わなくていいよ」とわたしが言うと、「そういうとこは変わらんなあ」と笑い、おいしそうにお茶を啜った。

 応接に戻り、わたしは里中さんの向かいに腰を下ろした。「地元は雪が降りましたか」と天気の話から入り、当たり障りのない会話が続く。

 緊張のせいか饒舌になり、こんな愛想よく話す姿を家族には見られたくなかった。ここ一ヶ月、家族とはまともに話していない。

 しばらくすると兄が裏口から入ってきて、「おー、寒」とストーブに手をかざした。

「史緒、迎えに行けなくてごめんな」

 里中さんはホッと肩の力を抜いたようだった。両親も顔を出し、里中さんは立ち上がって菓子折りを差し出す。「はじめまして」と母に向かって頭を下げた。

「こちらこそ」

 母のよそゆき顔は、ずいぶん久しぶりに見た。

 お昼時は従業員の出入りが激しく、みな兄の婚約者をひと目見ようと不必要にウロウロしている。わたしにまで不躾な視線が向けられ、動物園の珍獣にでもなった気分だった。


次回/44.結婚のカタチは

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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