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アイスクリームと脱走者/37


37.口止め料はチロルチョコレート

 車に乗り込み、暖気しながら兄に電話をかけた。カラオケボックスにいるあいだも何度か着信ランプが点滅していたけれど、ずっと無視し続けていた。

「お前、遅くなるなら電話くらいしとけ。母さん何度も電話しただろ」

 電話が繋がるやいなや、兄の不機嫌な声がした。

「カラオケしてたから気づかなかった。今から友達送って帰る」

「直接母さんに電話しろよ。いつまで意地張ってるんだよ」

「話しても喧嘩になるだけだもん。じゃあよろしく」

 強引に通話を終わらせて助手席に目を向けると、奏さんは口を半開きにして眠っていた。肩を揺らし「緑が丘でしたよね」と確認する。彼は「うん」と目を閉じたまま答えた。

「千尋ちゃん、コンビニ寄って」

 路駐して奏さんを降ろし、駅裏のロータリーの端に車を停めた。バックミラーにコンビニの明かりが映っている。

 奏さんと彩夏とボーズさんとヒロセさんとわたし。五人で歩いてヒロセさんのマンションに行ったとき、あのコンビニに寄った。晩夏の暑さは遠い昔のようだ。

 奏さんが駆け寄ってくるのがバックミラー越しに見える。彼は「寒い」と言いながら助手席のシートに収まった。

「酔いが冷めちゃうよ」

 奏さんは「はい」とミルクティーをわたしの目の前に差し出した。

「千尋ちゃんといえばミルクティー」

「いただきます」

 ひと口飲むと体の芯が温まり、ひと息ついて車を出した。隣でプシュッと缶を開ける音がする。
 
「ラジオ聞いていい?」

 奏さんがパネルを操作し、スピーカーからFMラジオが流れる。若手の男性歌手がリスナーのお悩みに下ネタを交えて答えていた。

「この人、下ネタ話したりするんですね」

「うん。ラジオだとキャラ違って親近感湧く」

「下ネタで親近感湧くんだ」

 からかうように言うと「そりゃあね」と嬉しげな声が返ってきた。

「下ネタは万国共通だよ。千尋ちゃんの大好きなヒロセさんも変態だから」

 奏さんは笑っているけれど、カラオケボックスでの泣き顔が頭に蘇る。

「ヒロセさんのこと大好きなのは、奏さんでしょ」

 記憶が曖昧なのか、彼は「うん?」と首をひねる。沈黙のまま信号をふたつ通り過ぎ、眠ってしまったのかと思ったころ返事が返ってきた。

「ああ、泣いちゃったね、俺。みんなには内緒にしてね」

「今さら内緒は無理です」

 呆れるわたしに、奏さんはグーに握った手を差し出してきた。

「あげる」

 おずおずと手を出すと、奏さんはそこにチロルチョコレートを置く。

「口止め料ですか?」

 うん、と聞こえた。

 信号待ちで赤く照らされた奏さんの顔は、すっかり眠っているように見えた。青信号になり、わずかに車が揺れると「俺も負けてらんないな」と小さな声がした。寝言だったのか、わたしに言ったのかよく分からなかった。

 緑ケ丘まで来ると、奏さんはいつの間に起きていたのか「そこ右、次は左」と道案内する。外灯の明かりで浮かび上がるのは街路樹ばかりで、その奥には似たような家が並んでいた。

「ここ」

 奏さんが指さした家の前に車を停めると、彼の車のほかに軽自動車とセダンが停まっていた。玄関にはぼうっとオレンジ色の明かりが灯っている。

「千尋ちゃん手出して」

 手渡された二枚入りのチョコチップクッキーは、輸入菓子のようだった。

「奏さん、魔法使いみたいですね」

「かもね」と笑って、奏さんは車を降りる。

「おやすみ、シンデレラ」

 歯の浮くような台詞を口にしたあと、奏さんはドアを閉めた。ノロノロと車を発進させて路地を進み、バックミラーに目を向けると奏さんが手を振っていた。

 コーヒーの匂いが車内に残っている。クッキーの袋を開け、帰りながら一枚食べた。

 家に着いた時には零時をまわっていた。夜空には細い月と、たくさんの星が散らばっている。わたしはちっぽけだった。ちっぽけだけど、存在しないわけじゃない。

 音を立てないようにそろりと玄関のドアを開けて靴を脱ぐと、廊下の奥で両親の寝室のドアが開いた。パッと電気がつき、母が手をかざして眩しそうに眉をしかめている。

「おかえり」

「ただいま」

 階段を上がろうとするわたしを、母の声が追いかけてくる。

「何度も電話したのよ。心配するじゃない」

「カラオケしてたから気づかなかった。お兄ちゃんに電話したでしょ」

「あんなに遅くなってから電話したって」

 逃げるように階段を駆け上がった。「千尋」と呼び止められたけど聞こえないふりをした。部屋に飛び込んでドアを閉め、カバンもコートもベッドに放り、自分の体も投げ出した。

 残っていたもう一枚のクッキーをかじると、部屋にその音が響いた。


次回/38.クリスマスと年末の予定は

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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