アイスクリームと脱走者/26


26.好きがいっぱいあったら

 十一時過ぎ。一階の祖母と両親が寝静まっているのを確認してお風呂に入った。

 ガシガシと汚いものを掻き出すように体を洗い、やけっぱちな気持ちで冷水をかぶる。寒さに震えて湯船に飛び込むと、情けなさがこみ上げてきた。

 風呂上がりに仏壇の前で祖父の写真に手を合わせ、横の戸棚を開ける。鈍く光るのは、父が飲まなくなってほったらかしになっているWILD TURKEY13 。表面に薄っすらと埃がかぶっていて、中身は三分の二くらい残っていた。

 かつての父は、酒であれば何でも飲んだ。夏にビール、冬の熱燗。夜遅くグラスを傾けるときはウィスキー。ウィスキーは夜の匂いがする。カラカラと氷の音をさせ、父は舐めるように飲んでいた。

 氷を入れたグラスとボトルを持って、わたしは階段を上がった。部屋から出てきた兄が、怪訝に眉をしかめた。

「お前、そんなの飲むの?」

「悪い?」

「いいけど、まあ、飲みすぎんなよ」

 半笑いで肩をすくめると、兄はさっさと下へ降りて行く。

 夕飯時のことを咎められるかと思ったのに、兄はずいぶんあっさりしていた。拍子抜けしたものの、意地を張っているのはお前だけだと責められているような気分にもなる。

 ベッドにドスンと腰を下ろし、ワイルドターキーのボトルを開けた。

 happy icecreamのことを思い出す。ペットボトルの水で割り、指で氷をクルクルと回した。啓吾さんが作ったものよりずいぶん濃いけれど、構わず口をつけた。

 あっという間に空になったグラス。振るとカラカラと氷の音がして、なんだか笑いたくなり、ゴロンとベッドに寝転がった。

 つけっぱなしのテレビで、男女がラブシーンを演じていた。さっきまでの鬱々とした気分が嘘のように体が熱をもって疼き、世界がフワフワと優しく揺れる。

 着信があったのはそんな時だった。

 相手も確かめず電話をとると、体の疼きが増した。それすらもおかしく、また笑いがこみ上げてくる。

「良かった、つながって。千尋ちゃん、なんか楽しそうだね」

 ヒロセさんだ。

「もしかして、誰かと一緒? これから会えないかと思ったんだけど」

「ひとりでーす。でも、お酒飲んでるので運転できませーん」

「酔ってるんだ」クスクスと笑い声が聞こえてきた。

「家かな? 迎えに行ったら、出られる?」

「いいですよ。着いたら電話下さい」

 スマホを投げ出し、アハハと声に出して笑った。

「バカみたい」

 こんな夜中に、こんな田舎まで迎えに来るなんて、バカみたいだ。

 パジャマを脱いで、ワンピースに袖を通した。胸が見えそうなVネックで、いつもは下にブラウスを着ている。

 姿見の前でクルッと回ったら、ふらついて床にへたりこんだ。スマホが鳴り、立ち上がってカーテンをめくると門先に車が停まっている。

 コートをはおり、兄の部屋をノックして「出て来る」と声をかけると、「なるべく早く帰れよ」と呆れ声で返事があった。

 ひやりとした夜気がワンピースの内側に忍び込む。空一面に瞬く星。虫の音に車のエンジンが低く唸りながら重なって聞こえる。静かな夜だった。

 コツコツと窓を叩くと、ヒロセさんが内側からドアを開けた。エアコンの暖かさにほっと力が抜け、シートに深く身を沈める。ココナッツの香りに混じって油っぽく香ばしい匂いがするのは、ヒロセさんに染み付いた料理の匂いだ。

「ごめんね、急に。千尋ちゃんに話しておきたいことがあって」

 ヒロセさんの表情は暗くてよく見えなかった。けれど、固さを含んだ声から良い話が続くとは思えなかった。彼はわたしの顔をのぞき込み、少し困ったように微笑む。そして何も語らないまま車を出した。

 車は市街地まで行かず、その手前のホテル街に入る。車を降りてヒロセさんの後をついていくと、部屋は和風のインテリアでまとめられている。行灯に壁際の障子。部屋の真ん中に大きなベッドがある。

 わたしはコートを脱いでベッドにダイブした。ごろんと寝返りをうって天井を見上げると、着物のような艶やかな布の合間に鏡が見える。自分の姿をぼんやりながめていたら、視界にヒロセさんが入ってきた。

「千尋ちゃん、シャワー浴びる?」

 わたしはヒロセさんの顔をじっと見て、「お風呂入りました」と首を横に振った。

「じゃあ、少し待ってて」

 キスをして、ヒロセさんは衝立の向こうに消える。一人残されたベッドの上でクッションに頭を埋めると、すぐにでも眠ってしまいそうだった。

 シャワーの音がかすかに聞こえる。その音は心地よく、いつのまにかウトウトしていた。

 誰かに呼ばれた気がして「うん」と返事をした。太ももに何か触れ、ぼんやりと意識が浮上する。まどろみの中で肌を這う指を感じながら、わたしは目を閉じたままでいた。

 息づかいが聞こえる。下腹に髪が触れ、乳房の上までたくしあげられたワンピースから頭と腕を抜く。肌が合わさる感覚に生々しさをおぼえた。

 胸を包み込む手、舌の湿り気、じきに彼の指が侵入し、いまさら「セックスするんだ」と思う。

 波多は、陽菜乃先輩とセックスしたのだろうか。

「ミサトって、呼んでみて下さい」

 わたしが言うと、ヒロセさんは動きを止め、そのあと耳元で「ミサト」と囁いた。おかしくて、クスクス笑ってしまったけれど、彼の唇で止められる。「千尋」と彼は口にして、なにかのスイッチが入ったように激しさを増した。

 ミサト、と頭の中で波多の声が聞こえる。天井の鏡に映るのは、顔を歪めるわたしと男の背中。最悪だ。

 快感と罪悪感が満ちては引き、心地よい酔いは吐き気に変わっていった。

「こんなからだ、壊して」

 つぶやくと、彼は「分かった」と興奮した声で言う。

 壊してくれたらいい。声をあげるたび、心が空っぽになった。このまま、からだごと溶けて消えてしまいたかった。

 息づかいが、重なるのが嫌だった。隣りあって寝転がっていたけれど、ヒロセさんの指が胸に触れ、わたしはそれを無視してベッドに起き上がった。シャワーを浴びて、落ちていた下着を拾って履いた。

「千尋ちゃん、帰る?」気遣うような声だ。

「帰ります」

 クシャクシャになったワンピースを頭からかぶり、その頃にはずいぶん酔いも冷めて、今さらのようにメイクもせず家を出たことに気づいた。

 ヒロセさんは服を着て、「帰ろっか」と軽い口調で言う。

「美月さんと、つきあってたんですか?」

 彼は言葉を失っていた。

「昔のことなんですよね。なんでもないです、忘れて下さい」

 言ってどうなるものでもないけれど、ただ言いたかった。

 帰りの車の中で、ヒロセさんは煙草を吸っていた。「めずらしいですね」と言うと、「最近色々あって」と、彼は言い訳じみた言葉を吐く。

 愚痴でいいから聞いていたいと思っていた自分が、どこかに消えてしまった。ヒロセさんはまっすぐ前を向いて、指先の煙草は肌を焼きそうなくらい短くなっている。

「仕事辞めることになった」

 言葉とともに、ヒロセさんは灰皿に煙草を押し付けた。驚いて運転席の方を向くと、逃れ難いほどまっすぐ目が合う。名残惜しむように、彼はフロントガラスに目を向けた。

「良かった、目が合った。嫌われたかと思った」

「そんなことは」

 チラと彼を見ると、ヒロセさんは苦笑している。

「呆れられたかと思って。ダメだよな、俺。甘えられるからって十歳も年下の女の子に慰めてもらって」

 ヒロセさんは左手をハンドルから離し、わたしの手に重ねた。その手を握り返すことができず、ギュッとこぶしを握りしめる。それを拒絶と受けとったのか、ヒロセさんの手はすぐにハンドルに戻った。

「ずっと、向きあうのを避けてたことがあって。どうにかしないとダメなんだけど、どうにもできない自分が情けなくて。誰かに許してほしかったんだ。でも、誰かじゃなくて、本人に許してもらわないと何も変わらない。当たり前なんだけどね」

「朝日さんのことですか」

「朝日と、親父さんかな。シェ・アオヤマのオーナーシェフ。世話になったんだ。本当の父親みたいに」

「シェ・アオヤマに戻るんですか」

「うん。正直、怖いけど。あの店から離れて六年。どうしてこんなに待っててくれたのか信じられない。六年前の俺は、朝日もアオヤマもプレッシャーでしかなかった。俺なんかより実力のある人たちばかりで、今でも自信なんかない。子どもができなかったら、戻らなかったかもしれない」

「戻りたくないなら、戻らなければいいのに」

 わたしは、どこか投げやりになっていた。素っ気ない言い方で、もう嫌われてもどうでもよくなっている。そうなんだけどね、と彼は言った。

「朝日が妊娠したって聞いたとき、やっと戻れるって思ったんだ。情けないけど、今そうしないと本当にダメだから」

「どうして、電話してきたんですか?」

「なんでかな。千尋ちゃんに会いたくなった」

 カチカチと音がし、黄みがかった明かりが点滅する。ウィンカーを出して路肩に車を寄せたヒロセさんは、「ちょっとだけ」と煙草をポケットに突っ込んで外に出た。運転席のすぐ外で、ヒロセさんはドアに背を預けている。

 わたしも車から降りて、助手席側のドアにもたれかかった。かすかに海の音が聞こえる。

「千尋ちゃんのこと、好きだよ」

 暗闇を静かに振動させたヒロセさんの声は、スルッと心のなかに入ってきた。嘘はついていない気がした。

「朝日さんのことも好きですよね」

「うん。ごめんね」

「親父さんのことも好きですよね」

「うん」

「うまし家のことも、店長のことも、みんなのこと好きですよね」

「うん」

「好きがたくさんあるのって、いいですね。この星と同じくらいたくさんの好きがあったら幸せなのに」

「千尋ちゃんは、波多が好きなの?」

 振り返って彼を見ると、ヒロセさんもボンネットに肘をついてわたしを見ていた。口元で煙草の赤い光がチリチリと動く。

「好き。彩夏も、店長も、奏さんも、美月さんも、みんな好き」

「俺のことは? ミサト」

 わたしが何も言わずにいると、彼はクスクス笑って「寒いから帰ろっか」と運転席に乗り込んだ。肩の荷を下ろしたような、スッキリした声だった。    


次回/27.帰りたくないから

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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