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アイスクリームと脱走者/27


27.帰りたくないから

 日曜の早朝、階下の生活音を聞きながらベッドでまどろんでいた。

 二日酔いの喉の渇きと、下腹部に残る違和感。胸にある喪失感は失恋なのか分からない。頭はぼんやりしているのに、体の芯がザワザワと昂ったままでいる。

 ミサトって、呼んでみて下さい――どうしてあんなことを言ったのだろう。

 目を閉じると、鏡に映ったわたし、覆いかぶさる背中。ミサト、と呼ぶ声。

 首を振ってギュッと強く目を瞑った。


 午前中は部屋にこもってレポートをしていた。兄も両親も仕事だったけれど、祖母とも顔を合わせる気になれなかった。

 今夜泊まってもいいかと、彩夏にメールを送った。学校を終えて家に帰るより、彩夏のところに行った方がよほどいい。けれど、午後三時を過ぎても彩夏からの返信がない。

 バイトに行く準備をして階段を降りると、祖母が足音を聞きつけたのか「千尋」と顔を見せた。心配そうに眉を寄せている。

「千尋、何か食べたら?」
 
「コンビニで買うからいい。今日、彩夏んちでレポートするから帰らないって言っといて」

 投げやりに言って背を向けると、祖母は追いすがるように玄関までついてくる。

「千尋。ちゃんとお母さんと話しなさいよ。ねえ」

 胸の中で虫が蠢くような、言いようもない不快感が押し寄せてきた。

「おばあちゃん。わたしのこと頭おかしいって言ったんだよ、あの人」

「千尋。お母さんのことを、あの人なんて言うもんじゃないよ」

 祖母の言葉はいつになく強く、わたしは思わず目をそらした。

 心は空っぽなのに、どうして涙は枯れないのだろう。どうしてこんなに必死で涙を堪えないといけないのだろう。

「わたしばっかり悪者にしないでよ。分かってもらえないなら、もう何も話したくない。お母さんだってお兄ちゃんだって、みんな自分のことばっかりじゃん」

 我ながら情けない声だった。おもちゃ売り場で駄々をこねる子どもみたいだ。蛇口をひねったように涙が溢れ出し、祖母は「千尋」と、わたしの腕をさする。

「よしよし、いい子いい子」

 幼い子どものような扱いに悔しさを覚えながら、それでも祖母の肩に顔を埋めて泣いた。泣きながら、頭の片隅で「ホットタオル当てなきゃ」と考えていた。


 うまし家に着いても彩夏からの返信はなかった。一緒に使っているロッカーには二人分の制服が掛かっている。

 着替えた後、姿見の前で片目ずつ瞑ってみたが、瞼は腫れずにすんだようだった。ホッと鏡から顔を離すと、後ろに立っていた美月さんと鏡越しに目が合った。

「何やってるの、千尋ちゃん」

 戸口のところで、不思議そうにこちらを見ている。

「美月さん、今来たところですか?」

「オフショアから戻ってきたとこ。店長もすぐ来るよ。聞いたと思うけど、彩夏ちゃんと波多君はあっちに行ってるから。今日はホールお願いね」

「え、彩夏もですか」

「知らなかった? 最初は波多君だけのつもりだったから言ってなかったかもしれない」

 彩夏がバイト中だということは、返信はしばらくなさそうだった。もし彩夏のところに泊まれなかったら、美月さんの家に行ってもいいかもしれない。

 日曜日は客の引きが早く、ラストオーダーの時刻で店内は空だった。片付けを終えてスマホを確認すると、彩夏からのメールが届いていた。

『終わったらうち来て。おもしろいから』

 意味深な文章に首をかしげ、電話をかけた。「ちひろー?」と、いつもより彩夏の声はテンションが高い。

「終わったなら早くおいでよ。待ってるから」

「おもしろいって、何?」

 彩夏の他に話し声が聞こえた。どうやら部屋に何人かいるようだった。

「ナイショ」

「誰か来てるんでしょ。誰?」

「だから内緒だってば。じゃあ、待ってるからね」

 彩夏のアパートまで走れば二分もかからない。わたしは急いで着替えを済ませ、カウンターで寛ぐ人たちに「お先です」と声をかけて店を出た。

 裏口を出ると、スタッフ用の駐車スペースに軽ワゴンが停まっている。ペールピンクで、バックミラーにぶら下がったマスコットから女性の車のようだった。誰のだろうと考えながら、わたしは路地を彩夏の家に向かって駆けた。

 アパートの下で息を整え、音をたてないように階段を上がる。ドアの前で聞き耳をたててみるけれど、中の音は聞こえなかった。

 音符マークのついたレトロなチャイムを鳴らすとしばらくして足音がし、ガチャリとドアが開けられた。

「おつかれ、ミサト」

 波多だった。

 可能性は十分にあったはずなのに、わたしはなぜか混乱し、言葉を詰まらせたまま動けずにいた。


次回/28.この部屋にこのメンツで

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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