アイスクリームと脱走者/22


22.小言なんて聞かない

 店長とヒロセさんが帰ったあと、お粥を食べた。時計を見ると午後の授業が始まるまであと十分。わたしは勢いにまかせて波多に電話をした。

「ミサト?」

 波多の声は、昨日聞いたばかりなのに懐かしく感じられる。後ろからザワザワと話し声が聞こえた。

「波多、昨日はごめん。代わりに働いてくれたんだよね」

「店長に聞いた? 気にしなくていいよ。それより、ミサトの声やっぱりカゼっぽい」

 波多にうつってたらゴメンねと言うと、ハハッと笑い声が聞こえた。たぶん、目元がクシャッとなって、はにかんだように口の端を歪めている。

「そんなにヤワじゃないよ。ミサトは自分の心配してればいい」

 背中にのっていたモノがふわっと消えて、涙が流れた。泣いてばかりいるのはカゼのせいかもしれない。

「ミサト、しんどかったら無理しなくていいよ」

「大丈夫。復活したらまた連絡する」

 電話を切って、ティッシュで思いきり鼻をかんだ。ピロンとメールの着信音がし、確認すると差出人は波多だった。

『前言ってた「ミサトさん」のDVD、おじさんから借りてきたから今度貸すよ』

 メールには写真が添付されていた。彩夏と圭が写っている。場所は先日圭と入った第一講義室らしく、波多が撮ったのか本人は写っていなかった。

 波多と撮ったバーベキューの写真を探した。高校の頃よりずいぶん仲良くなったけれど、彼の肩に腕を回したこの距離は、今見ても現実感がなかった。

 夕方に熱が少し上がったけれど、寝込むほどではなかった。ベッドでテレビを眺めていると、ノックの音がして父が顔を出した。

「飯、食えるか。うどん持ってきたけど」

 小さな土鍋が湯気をあげていた。ダシの効いたつゆの香り。

「うん、食べる。いたれりつくせりだね」

「こういう時くらいな」

 父はベッドの脇の机にお盆を置くと、ひょいとわたしの額に手を当てた。目元が緩み、シワがわずかに深くなる。

「昼よりはちょっと下がったか」

「うん。良くなった気がする」

 わたしがうどんを食べているあいだ、父は床にあぐらをかいてニュースを見ていた。ときおり「まったく」とか「なんでかなあ」と呟いていたけれど、父がテレビに話しかけるのはいつものことだ。

 少し残して「ごちそうさま」と言うと、父は土鍋をのぞきこんで「まあ、これだけ食えればいいか」とお盆を持って立ち上がった。ドアの前で振り返り「千尋」とわたしの顔を見る。

「千尋はギリギリまで誰にも言わんけど、しんどかったら無理すんな。まあ、兄貴があんなだったし、父さんや母さんがそうさせたのかもしれんけど。でも、倒れるまで我慢するのは良くない」

 ふだんは説教臭い言葉を口にする人ではないから、口調に照れがあるのがおかしかった。

「うん、分かった」

 わたしも照れくさくなって「へへ」と声に出して笑った。そのときトントントンと軽快に階段を上がってくる音がし、ドアが開いた。

「千尋」

 母だった。わたしと父が「おかえり」と声をそろえると、母は「うん」と気もそぞろに返事をし、父の持った鍋を開ける。

「千尋、残してるじゃない。大丈夫なの。熱、まだ下がってないんじゃない?」

 わたしの額に手を当てた母は、「下がったみたいね」とため息をついた。ベッドの端に腰を下ろし、母につられて父も椅子に座る。

「大丈夫だから、ご飯食べなよ。お父さんもまだでしょ」

 母がクルッとこちらを向き、強い視線でわたしを見た。失敗したと思ったけれど、もう遅かった。

「千尋もテレビ見てないで、さっさと寝てなさい。こんなになるんだったら、バイトやめたほうがいいんじゃないの? いつも遅くまで帰ってこないし、朝ごはんも食べたり食べなかったり。お昼も学校でちゃんと食べてる? もう二十歳も過ぎたんだから、好き勝手しててもダメなのよ。親に心配ばかりかけて」

 母の小言は、いつもなら適当にやり過ごしてその場を離れる。逃げ場のない今は、「ちょっと横になる」と布団をかぶるしかなかった。

 小さい頃のことを思い出した。

 兄が体調を崩すと母は枕元に座り、同じように小言を言った。兄は生返事をしていたけれど、横で聞いていたわたしは言い返したくて仕方なかった。そうしなかったのは「お兄ちゃん病気なんだから、千尋はいい子にしててね」とあらかじめ言い含められていたからだ。

 あるとき、点滴と酸素マスクにつながれた兄に、母はいつものように小言を言った。兄の目は半開きで、しんどくて言い返せないだけなのだと、その時に気がついた。

「お兄ちゃんしんどそうだから、またにしたら?」

 母は「そうね」と兄を解放したけれど、病室を出たあと兄に言うはずだった言葉をわたしに向かって吐き出した。

「千尋、聞いてるの?」

 母が布団越しにわたしの体を揺らした。

「うるさいなあ。しんどいんだから寝させて!」

 たぶん、過去を思い出したのが良くなかった。叫ぶような、強い口調になった。頭がガンガンする。

「そんな言い方ないでしょ。お母さん心配してるのよ。まったく、家族みんなで心配ばかりかけて、お母さんのほうが倒れちゃうわよ」
 
「まあまあ」と、取りなすような父の声が聞こえる。いったいどんな顔をしているのだろう。

「母さん、千尋もまだしんどいみたいだし、母さんも腹減ってるだろ。寝かしてやろう」

「あとでちゃんと歯磨きしなさいよ」

 母は捨て台詞を吐き、テレビを切って部屋を出ていった。母の足音だけが遠ざかり、父はまだそこにいるようだった。

「千尋、電気切るか」

 輪をかけて優しげな父の声が聞こえ、わたしは体を起こして「うん」とうなずく。父はスイッチを押し、豆電球だけにした。廊下の明かりで逆光になった、父のシルエットは数年前よりずいぶんスリムだ。

「千尋。母さんはあんな言い方しかできんけど、心配してるだけだから。別に責めてるわけじゃない。気にすんなよ、な」

 父はそっとドアを閉めて下に降りていった。たぶん、父も小言を言われたことがあるはずだ。それでもあんなふうに言えるのは夫婦だからか、大人だからなのか。


 夜中の十一時頃に目が覚め、歯磨きをしていないことを思い出して洗面所に下りると、居間でテレビの音がした。そっとのぞくと、ソファにだらしなくもたれかかった兄が一人でビールを飲んでいる。

「お兄ちゃん、起きてたの?」

「ああ、良くなったのかお前」

「それなりに。お母さんにグチグチ言われたから、キレてやった」

「ハハッ。まあ、言えば気がすむ人だから。言わせてあげればいいよ。しゃべってストレス発散してんの」

 酔いがまわっているのか、兄は普段より浮かれた調子でケラケラ笑った。

「まわりはいい迷惑じゃない。お兄ちゃんだって嫌だったでしょ」

「俺?」

 兄はぼんやりした目でわたしを見る。ヘラヘラと、わたしの嫌いなやる気のない笑み。

「正直しんどい時もあったけど、こっちも迷惑かけてるわけだから、言えないよ」

「迷惑って、お兄ちゃんだって好きで入院してたわけじゃないでしょ」

 兄のフォローをしたいわけではない。無意識の言葉だった。

 兄はビールをグビッと飲み、妙に冷めた表情でわたしを見る。

「そうは言っても親が忙しくしてるのは見てれば分かるし、わがまま言えないだろ」

 カチリ、とわたしの中でスイッチが入った。行き場のなくなった怒りは、消えてはいなかったらしい。

「わがまま放題だったじゃない。入院しなくなってようやく落ち着いたと思ったら、今度は家に寄りつかなくなるし。髪、金髪になるし。あんなに口うるさかったお母さんも、金髪のお兄ちゃんには何も言わないし。お父さんも見ないふりして。なんでわたしばっかりいい子にしてなきゃいけないのよ」

 兄は目を見開き、それから困ったように頭を掻いた。

「千尋には、悪かったな。俺もやっぱりさ、言いなりになるの嫌だったんだよ。親ん中の俺のイメージをぶち壊してやりたかった。俺がああなって、母さん何も言わなくなったろ。なんていうかさ、母さんにも『俺をこんな体に産んでしまった』っていう負い目みたいなのがあったのかもって、思ったんだよ」

 言葉が出てこなかった。兄はビールを飲み干して、わたしをチラと横目で見る。

「まあ、そういうことだからさ、愚痴で母さんのストレスがなくなるならそれでいいかって。実際、あの人ほとんど病気しないじゃん。たぶん嫌なこと全部吐き出してるんだよ」

 兄はそう言うと、台所に行って冷蔵庫からもう一本ビールを取り出した。そして、「早く寝ろよ」と二階に上がっていった。 

 父も兄も、母の味方だ。

 三人は分かり合っているのかもしれないけど、その輪の中に自分はいない。そんな僻みがずっと心の奥底にあったのは事実だ。

 両親と一緒にいるのはいつも兄。兄が入院して家で両親の帰りを待つとき、祖父と祖母の間に布団を敷いて寝た。布団の中で「わたしはもらわれっ子なのだ」と、本気でそう思っていた。

 わたしはいつも一番になれない。家族の中でも、ヒロセさんの中でも。それはとても自分らしい気がした。

 居間を抜けて奥の間に入り、薄暗い部屋で仏壇に手を合わせた。祖父はいつもと変わらず、笑顔でこちらを見つめている。

 おじいちゃんに会いたい。そう思った自分が惨めだった。

 部

屋に戻ってベッドに横になっても、なかなか寝つけなかった。時計を何度も確認しながら、うまし家のことを考える。まだみんな起きてる。そう思うだけで、すこし救われた気がした。


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