現代社会に生きる多くの人が、「受け取る」ことが苦手なのではないかと思う。 わたしたちは無意識に、判断している。 それは見た目には気づかないGIFTを受け取り拒否している場合もある。 例えば、自分自身を評価し、もっと◯◯しなくては。と思っている時、私たちの心は◯◯にしか向いていない。 すると◯◯という形以外のものを受け取っていても、それは違う。とはねのけてしまう。 すると循環が生まれず、一方通行でせき止めてしまう。 受け取るということは、物質だけではない。 受け取るとい
この言葉を聞いて👂この言葉を体感してから、 身体で呼吸🫁をすることに、喜びを感じるようになった。 私たちが身体で体感する前にその存在はそこに在る。 私たちが身体で体感した時にはその存在が生かすと決めて、改めて身体で体感することができる。 私たちが気づかないその一瞬一瞬に 奇跡が行われている。 私を生かしてくれているその存在との 密なコンタクトが、常にそこにある。 吸う息の前の「間」に…受け取って 吐く息の前の「間」にお返しする。 吸う息で何を受け取るか 吐く息で何をお
わたしたちはいつも、目の前に起きた出来事に翻弄される。 そして、それらを自分でなんとかしようとする。 本当は、私が望んだその時から、戦ははじまっている。 それは目には見えないが、仲間を信じて待つだけなのだ。 私たちは、必ず叶うと、信じているだけなのだ。 ほらっ、仲間の兵が伝令をもってやってきたぞ! ひょっとすると、知らず知らず、誰かの兵かもしれないが、それもひとつ。 なぜなら、誰かの望みにとっては私たちは立派な兵になりうる。 それは、目にはみえない形で、知らず知らずその
内側への祈りも、外側への祈りも… どちらも同じである。 それは神社に参拝する祈りも 自宅で祈る祈りも どこで祈りをささげているのかの違い。 それだけである。 私たちの思考の現実化には、どちらで祈りをささげていても、祈る対照が違わなければ同じである。 なぜなら、重要なのは「対象」であり、祈る場所ではないということ。 私たちの思考や想いは瞬時に具現化する。 それは大も小も変わらない。 私が何かひとつにポイントをあてている時、 その対象がとても大きくなる。 それが「悲しみ
私たちは日常的に、目には見えない何かを体験している。 その目には見えない何かが、この現実世界に反映されている。 いわば、思考の手前にあるもの。 わたしたちが経験しうる全てのことは、思考の手前で作り上げられている。 それは、過去からの記憶であり、前世からの記憶ともいえる。 私たちは過去に戻り、癒すこともできるし、 前世に戻り、癒すこともできる。 しかし、過去も前世も今に全てが集約されているとしたら、「今」に向き合っていくことで癒すことができる。 感情が動いたその裏には、
瞑想中出てくる思考を止めよう。 とがんばった経験はないですか? 実は瞑想中に出てくる思考の働きは、私たちの自然治癒力を働かせていることを知っていますか? 私たちは日常的に、様々なことを経験し、体験しています。 それらは知らず知らずのうちに、私たちの内側に残っています。 思考の働きは、いわば私たちの日常的にあるものをクリアにするために起こっています。 思考の働きがおさまる。ということは… 溜まったものがクリアになるということ。 静まった思考に戻るとフラットなあなたにな
目に見えるところだけを追い求めても、何もわからない。 繋がっているとわかっていても、どこか不安で、 その不安はいつしかまた、目に見えるものを追い求める。 私たちは、この肉体が自分であると思ってしまう。 すると周りが他にみえて、それは苦しみの原因となる。 私たちが内なる神を心底信じられた時、ただ今に安心できる。 なぜなら、内なる神から、私たちの世界は反映されているから、内なる神と常に共にあるということは、私の中にある深い愛と共にある。ということ。 深いところにあなたがい
個にみえる私たちの肉体が、深い部分では繋がっていると、聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。 それは、「私」という肉体から離れるとみえてくる。 でも、肉体から離れると聞いた時、多くの人が客観的な視点を想像するでしょう。 それで納得できる方はいいのですが、もしも客観的視点になっても、「私」の感情に蓋をしている場合は、まずはそのまま私が感じていることを、ただ感じるところからはじめてください。 私が感じていることをただ感じる。 悲しいのか、イライラしてるのか、辛いの
私たちの純粋な気持ちには何もくっついていない。 でも、いつの間にか、いろーんなものをくっつけてしまうのが私たちの思考。 例えば、ただ「好き」という想いがあったとする。 なんで好きか?どこが好きか?なにが好きか? など、いつの間にか理由を考え出す。 そして理由をみつけた途端に条件という形をとる。 ◯◯をしてくれるから好きや、 ◯◯だから好きなどの条件付きの好きは、 ◯◯をしてくれない。 ◯◯じゃないなどの不満がうまれる要因となる。 ただ、純粋なすきはいつの間にか、形を
私たちの思考というものは、止まることを知らない。 お風呂から上り、髪を乾かそうと思ったが、 目の前にあった携帯が気になり、携帯を手に取った。 そしたら未返信のメッセージをみつけて、返信を返す。 そうこうしていると、近くにあったカードが引きたくなった、メガネがないことに気付き取りに向かう。 ほんとうは、髪を乾かす。ことが流れなはずが、思考のワープはとどまることを知らない。 身体をマッサージしよう。と思った。 アロマをたいたらどうだろう? きっといい香りがするよ! 薄暗い方が
私たちが常に外側に求めるものは、本当は私たちの中に既にある。 私は居場所を探していた。 どこに居ても、何をしていてもひとりぼっち そんな感覚がどこかにずっとあった。 ぴったりと当てはまらない感覚があった。 でもそれは違った。 私はひとりぼっちという思考に光のを当てることによって、自分をひとりぼっち。にして 私はだめな自分だという思考に光をあてることによって、自分をだめな存在。にして 私は何も持っていないという思考に光を当てることによって、ないものを求めた。 本当は、ひ
インドの神様、ハヌマーン神(シヴァ神の化身)は胸にラーマ王とシータ姫が常に居る。 それはラーマ王が至高神の化身であることから、ハヌマーンは至高神を信仰する象徴として産まれたといわれている。 胸の真ん中に意識を向けると、ただ、純粋な光。 そこには思考も感情も、なにもないことに気付く。 ただ、まるで映写機のように、外側を映し出している。 そこにとどまると、ただ、美しい光だけを感じる。 私たちは外側にある見たものに反応し、思考が働き、感情が働く。 この思考や感情というフィルタ
サンスクリット語(聖なる言葉)にAbhimani「アビマニ」という言葉がある。 これは、私たちが日常で体験している3つの状態をあらわす言葉だ。 私たちは日常的に常に3つの状態で生きている。 ①個人的に私が居ると肉体を自分だと認識している状態(起きている) ②眠っている時に夢をみているような状態(夢をみている) ③深い眠りに入り、夢もみていない、認識もない状態(深い眠り) これらを日常生活に置き換えるとこのような状態といえる。 ①仕事をしている時の私(役割として担っている
私たちの目の前は、常に変化している。 一瞬も変化の無いものなど存在していない。 私たちが目の前に変化がないように感じているのは、私たちが目の前を変化のない日常と認識しているに過ぎない。 私たちの「根源」には常にクリアで産まれたての 「意識」がある。 その「意識」にはなにもくっついてはいない。 私が居る。という意識は、この肉体を私だという認識があるゆえに、感じている。 私たちの「意識」はそれほど、パワフルだということがうかがえる。 意識の上に私たちがのせているものは、
さあ、みなさん、呼吸に意識を向けてみてください。 その呼吸は浅いですか?深いですか? こんなフレーズを聞いたことある方もいるかもしれません。 呼吸が浅いことに気付くと、深く呼吸することに意識が向くかもしれません、深く呼吸するには筋肉を緩めることに意識が向くかもしれません。 筋肉を緩めることに意識が向くと、その反対も必要だったことに気付くかもしれません。 はたまた、呼吸が浅いことに気付くと、普段の癖や習慣に気付くかもしれません。普段の習慣や癖に気付くと、原因を心にみるかもし
洗い物をする。 洗い物をしようとしてする。 綺麗に洗おう。面倒だ。 などの気持ちが入る時、私たちは行為をしている。 洗い物をしようと決めた。 その後は、決めたことをこなす。 そこに一切の雑念がない。 これは行為をしながらも行為をしていない。 状態といえる。 いわば、行為をしながらも瞑想をしている状態ともいえる。 私たちは、何かを思いついた後、様々な雑念によって、それらがかき消されてしまったり、行動にうつせなかったり、諦めたり、様々な障害がある。 しかし、その障害は本