マガジンのカバー画像

新潟の大学生の「知らなかった沖縄」

17
敬和学園大学(新潟県新発田市)の集中講義「情報メディア特論(国内研修)」の成果の一部です。本来この科目は、2022/2/14-18にかけて、沖縄本島を訪問し、各地を訪ねた映像撮影… もっと読む
運営しているクリエイター

記事一覧

行ったつもりの沖縄訪問スポット情報

今回作成しているnoteマガジン「新潟の大学生の『知らなかった沖縄』」は、敬和学園大学(新潟県新発田市)の集中講義「情報メディア特論(国内研修)」の成果の一部です。本来この科目は、2022/2/14-18にかけて、沖縄本島を訪問し、各地を訪ねた映像撮影等を行いながら、沖縄についての理解を深めるというものとなるはずでした。2022年1月から沖縄県、首都圏、新潟県その他全国に広まった、新型コロナウイルスのオミクロン株の感染拡大により、沖縄への訪問を断念し、大学での授業も大半をオン

戦後沖縄放送界の功労者、川平朝清という人(岸田)

沖縄戦後初のアナウンサーとして活躍した川平朝清さんは、沖縄のメディアを語る上で欠かせない存在です。現在テレビ・ラジオで活躍する、ジョン・カビラさん、川平慈英さんのお父さんでもあります。川平家は琉球王国時代、王家に仕えていた家系にあたります。 川平さんが歩んできた道のりは、2019年6月23日、沖縄「慰霊の日」にJ-WAVEで放送されたインタビュー「J-WAVE SELECTION GENERATION TO GENERATION ~STORIES OF OKINAWA~」で

知らなかった「沖縄の新聞」

「メディアが偏っているのか 『基地』が偏っているのか」 今回の授業の中では、琉球新報のデジタル推進局長の 滝本匠さんに講義をお願いしました。基地問題を始めとするさまざまなトピックの中で、沖縄の新聞に対する「偏向報道」という批判が話題にのぼりました。沖縄の新聞が偏っている以前に、米軍基地が沖縄に偏っていることがまず問題だ。基地の偏りが、世論のズレを生み、それが新聞の偏りにみえているにすぎない。そういう趣旨のお話でした。 私にはとても興味深いお話でしたが、「知らなかった沖縄」

ひめゆりの塔事件と美ら海水族館

1947年の「天皇メッセージ」の意味 今回の授業の中では、琉球新報のデジタル推進局長の 滝本匠さんに講義をお願いしました。基地問題を始めとするさまざまなトピックの中で、昭和天皇は沖縄をどう考えていたのかも話題になりました。その中で紹介されたが、1947年の「天皇メッセージ」です。これは1947年9月、昭和天皇が米国側に対して、沖縄の軍事占領に関する見解を伝えたものです。 ひめゆりの塔事件 その後昭和天皇は、沖縄を訪問する機会を持つことはありませんでした。代わって返還後の

瀬長亀次郎だけではない、米施政権下の政治家たち

2017年に公開された映画「米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー~」は、米国施政権下の沖縄で、摩擦を恐れずに戦った政治家、瀬長亀次郎さんを描きました。アメリカの統治に妥協せずに戦い続けた「反骨の政治家」として、その親しみやすい人柄も含めて、瀬長は描かれています。琉球政府の行政主席を始めとして、米国施政権下で政治家であり続けた人たちは、さまざまな制約の中で、住民の自治権の拡大を求めて、それぞれが戦ってきたとは言えそうです。どんな人達がいたのか、以下は、学生メンバーの岸田さん

知らなかった「コザ騒動」

アメリカ施政権下の沖縄で起きた「コザ騒動」は、「コザ暴動」「コザ事件」「コザ反米騒動」といった言葉が使われていて、沖縄の人々の米兵への怒りがあらわされた事件といえると思います。2020年には、50年を記念した特集記事が多く作られています。「騒動」であれ「暴動」であれ、この言葉だけではなかなか、この事件の意味は伝わりにくいところです。以下は、学生メンバーの小田さんがまとめた文章です。 1970年12月20日に起きた暴動。以下のような経過をたどりました。 コザ市内で、道路を横断

知らなかった「沖縄の核」

米軍統治下の沖縄は、米軍の拠点となっていて、その状況は本土復帰後も続いている、というのは、多くの人々がよく知っているところです。しかし、そこに核兵器が配備され、しかも核戦争の危機が迫っていたというのは、ほとんど知られていないように思います。 NHKスペシャル「沖縄と核」の中では、実は日本政府も、沖縄に「核の傘」があることを望んでいたのではないかという見立てが、登場します。 番組内容についてのディスカッションのあと、2年宮澤さんが担当して、返還交渉にかかわり、のちに「密約」に

知らなかった「対馬丸事件」

沖縄戦について、今回始めて詳しく学び議論しました。ただ、「地上戦」としての沖縄戦以外にも、さまざまな出来事が起こり、悲劇がありました。ここでは学童疎開船が遭遇した事件「対馬丸事件」についてまとめています(担当:岸田) 「対馬丸とはかつて存在した学童疎開船です。日本郵政により貨物船として作られた対馬丸は第二次世界大戦時に徴用され、戦争末期には疎開船となりました。対馬丸は1944年8月22日、沖縄から長崎へと向かう学童疎開の最中、米軍の潜水魚雷に撃沈され多数の犠牲者が出ました。

石垣島事件と直江津捕虜収容所事件

沖縄戦について、今回始めて詳しく学び議論しました。ただ、「地上戦」としての沖縄戦以外にも、さまざまな出来事が起こり、悲劇がありました。ここでは、石垣島で起きた捕虜虐殺事件の「石垣島事件」、さらにはこれに私達の暮らす新潟で起きた類似の事件、直江津捕虜収容所事件についてまとめました。(担当:五十嵐) 石垣島事件 1945年4月15日、石垣の海軍警備隊が、撃墜し捕虜となったアメリカ海軍艦載機の搭乗員3人を殺害した事件です。1948年に横浜裁判で海軍警備隊の関係者ら46人が起訴され

知らなかった「戦争マラリア」

沖縄戦について、今回始めて詳しく学び議論しました。ただ、「地上戦」としての沖縄戦以外にも、さまざまな出来事が起こり、悲劇がありました。ここでは八重山地方の戦争マラリアについてまとめてみています(担当:田村) 日本軍のマラリア有病地帯への強制避難命令によって多くの人が患ったマラリアを、戦前のマラリアとは区別して「戦争マラリア」と呼んでいます。 人のマラリアは5種類あり、沖縄県の八重山地方は人間の命を最も脅かす悪性マラリアと呼ばれる熱帯熱マラリアが蔓延していました。1530年

知らなかった「沖縄移民」

今回の授業は、新型コロナウイルスに翻弄され、沖縄に渡航できなくなった中で行われたものです。途中、沖縄にはいけないけど、本州の中であればどこか行けるかもと思い、「沖縄」に関連する場所を調べていく中で、一つキーワードとして浮かんだのが、「移民」でした。具体的には横浜市鶴見区に行ってみるという案がうかんだのですが、残念ながらそれも果たすことはできませんでした。ですが、テーマは残りました。ハワイや南米など、各地に移民した沖縄の人々は多く、その実態を学んでいくことは意義があるのではない

知らなかった「沖縄戦」:学生たちの感想から

沖縄が背負ったさまざまな歴史の中で、「国内最大の地上戦」(「国内唯一」という言い方もされるが、樺太でも地上戦が行われている)となった「沖縄戦」は、やはりもっとも重要な意味を持っているように感じます。すでに「遠い記憶」」になったとはいえ、「県民4人に1人がなくなった」とされる戦いです。その犠牲と傷跡は、今も沖縄の人びとの「記憶」に深く刻まれ、継承されていくものと考えられます。 今回は、2015年6月、NHKが放送したNHKスペシャル「沖縄戦全記録」をみて、その印象はもちろん、

那覇新都心に残る「シュガーローフ」の痕跡

沖縄戦のことを調べていくと必ず遭遇するのが、シュガーローフの戦いです。首里をめぐる激戦を日米が繰り広げた場所で、丘の形から米軍がシュガーローフと呼んだのが起源のようです。日本軍は安里五二高地と呼び、もともと沖縄では、慶良間諸島が眺望できる慶良間チージと呼んでいた場所だそうです。 (この項目は、担当教員の一戸がまとめました) 上の戦後65年の記事で、遺骨収集について話している具志堅隆松さんの活動が紹介されていて、シュガーローフとその周辺には以前多くの遺骨が眠っているのかなと

クブイリチーの海の道:新潟の抜け荷と薩摩・琉球

交通手段の発達した現在、新潟から沖縄への往来も容易になりました。しかし、このように便利になる以前には、新潟と沖縄、なにか接点がなかったのか。調べていくと、「昆布」をめぐる、新潟と薩摩・琉球への接点が見つかった。幕府が新潟での薩摩の密貿易(抜け荷)を摘発した事件です。 天保6年(1835年)、現在の新潟県胎内市である越後国蒲原群村村松浜沖で、抜け荷(密貿易)事件が摘発されました。調査摘発に当たったのは初代新潟奉行の川村修就(かわむらながたか)で、彼は非常に高価であるはずの珊瑚