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戦後沖縄放送界の功労者、川平朝清という人(岸田)

沖縄戦後初のアナウンサーとして活躍した川平朝清さんは、沖縄のメディアを語る上で欠かせない存在です。現在テレビ・ラジオで活躍する、ジョン・カビラさん、川平慈英さんのお父さんでもあります。川平家は琉球王国時代、王家に仕えていた家系にあたります。

川平さんが歩んできた道のりは、2019年6月23日、沖縄「慰霊の日」にJ-WAVEで放送されたインタビュー「J-WAVE SELECTION GENERATION TO GENERATION ~STORIES OF OKINAWA~」で放送されています。聞き手は長男のジョン・カビラさん。第 57 回ギャラクシー賞ラジオ部門大賞、2020 年日本民間放送連盟賞ラジオ・グランプリを受賞しています。現在は未放送分も含めて公開されています。

また毎日新聞でも、「沖縄、台湾をつむぐ」という連載が行われています。


川平朝清さんの生涯を振り返ってみましょう。

1.誕生から終戦まで

朝清さんは台湾生まれ台湾育ちです。というのも父である朝平さんが第一次世界大戦の好景気で石炭と黒糖の会社を興したものの事業に失敗し「ソテツ地獄」も重なったことで沖縄に見切りをつけ再起を目指して家族で台湾に渡ったためです。その後、1927年に朝清さんが生まれました。朝清さんは兄である朝申さんがラジオ新聞で児童演劇に携わっていたこともありラジオと児童演劇に親しみつつ、1940年には台湾一の難関である台北高等学校へと進学します。けれども在学中に太平洋戦争が激化したことで学徒出陣が始まり、朝清さんは陸軍二等兵として徴兵されました。そして終戦を迎えます。

2.沖縄引き上げと放送界への進出

台湾は中華民国に返還され、日本統治領で無くなったことにより川平一家は引き揚げを余儀なくされました。引き揚げ後、朝清さんは博物館の翻訳・通訳の仕事に就きます。1949年になると兄である朝申さんは台湾での経験から「沖縄のように島が多いところでは、娯楽と情報と教育の面でラジオほどいいものはない」とし、米軍に頼み込みラジオ局「琉球の声放送」(AKAR)を開設します(のちにコールサインはKSARに変更)。朝清さんは、「琉球の声」で沖縄初のラジオアナウンサーとなりました。最初の放送では沖縄で祝儀の際に演奏される「かぎやで風」という曲を流したそうです。その後、本格的に放送界へと足を踏み入れた朝清さんは東京にNHKのアナウンサー養成所があるとの話を聞き、米軍の斡旋の元、単身東京へと向かいました

3.アメリカ留学

1953年、ラジオテレビドラマの選考でアメリカ留学の機会を得、ガリオア留学生としてアメリカミシガン大学に入学します。アメリカで朝清さんは放送は人々の関心、利益、福祉のためにあるべきであるという考えに感銘を受け、沖縄の放送に必要なのはこれだと確信しました。

※ガリオア留学生...アメリカ国防省から占領地域に与えられた資金によって留学した人々

4.沖縄帰還後から現在まで

沖縄へと帰還した朝清さんは、開局してから2年目となるRBC琉球放送の、米兵向け英語放送部局長補佐に抜擢されます。ラジオ局を経営する傍ら、自らもアナウンサーとして沖縄Todayという番組で沖縄の文化と歴史を伝えることに努めました。また、当時のディレクターは挑戦的な方で沖縄での米軍犯罪について言及する番組を手掛けることもあったそうです。

1960年代頃になると沖縄のテレビ放送は急速に花開きました。1959年に沖縄テレビ、1960年に琉球放送、1967年には沖縄公共放送が始まりました。公共放送法が整備され、沖縄放送協会会長には朝清さんが選ばれます。そして1972年の沖縄返還の際には日本公共放送協会(NHK)に合流し、沖縄に本土並みのテレビネットワークを形成するに至りました。返還後は家族で東京に移り住み、NHKの経営主幹に就任しました。現在は昭和女子大学の名誉理事を務めています。放送は人々の関心、利益、福祉のためにあるべきという考えには現在も変わりなく、次世代にもこの考えが受け継がれていくことを願っています。戦前戦後を生き抜き、生き残ったからこそ沖縄に放送という形で尽くしたい。そして、その放送局経営を学んだ地は以前の敵国アメリカという川平朝清さんの生涯はまさに沖縄と日本、アメリカの戦後史の一片を象徴しているかのようです。


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