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知らなかった「沖縄の核」

米軍統治下の沖縄は、米軍の拠点となっていて、その状況は本土復帰後も続いている、というのは、多くの人々がよく知っているところです。しかし、そこに核兵器が配備され、しかも核戦争の危機が迫っていたというのは、ほとんど知られていないように思います。

NHKスペシャル「沖縄と核」の中では、実は日本政府も、沖縄に「核の傘」があることを望んでいたのではないかという見立てが、登場します。
番組内容についてのディスカッションのあと、2年宮澤さんが担当して、返還交渉にかかわり、のちに「密約」について発言した若泉敬さんについても調べています。

45年前の本土復帰までアジアにおけるアメリカ軍の“核拠点”とされてきた沖縄。これまで、その詳細は厚いベールに包まれてきた。しかし、おととし、アメリカ国防総省は「沖縄に核兵器を配備していた事実」を初めて公式に認め、機密を解除。これを受け、いま「沖縄と核」に関する極秘文書の開示が相次ぎ、元兵士たちもようやく重い口を開き始めた。そこから浮かび上がってきたのは、“核の島・沖縄”の衝撃的な実態だ。1300発もの核兵器が置かれ、冷戦下、東西陣営の緊張が高まるたびに、最前線として危機的な状況に置かれていたこと、さらには、「核」の存在こそが、沖縄への米軍基地集中をもたらす要因となっていたという新事実・・・。
1950年代から急速に部隊の核武装化を進めようとしたアメリカと、国民の見えない所に「核」を欲した日本、両者の思惑の中、“唯一の被爆国”の番外地として、重すぎる負担を背負うことになった沖縄。新資料と関係者への証言から、沖縄と「核」の知られざる歴史に光をあてる。

NHKスペシャル | スクープドキュメント沖縄と核 https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170910

学生メンバーの挙げたキーワードと感想

激戦の末に多くの犠牲を出した伊江島が再び米軍の訓練場となり、しかも住民を強制的に立ち退かせて、核戦争の準備(LABS訓練)をしていたという点が印象に残ったようです。また読谷村のミサイル発射台には実際に核ミサイルが配備されていたばかりか、誤発射事件も発生していたことも大きな印象を残したようです。

メースB
「核の島」
LABS
DEFCON
ビキニ水爆実験
キューバ危機
伊江島
沖縄返還と核密約
銃剣とブルドーザー

感想としては、岸田さんのものを代表として挙げておきましょう。

「アメリカ側のキューバのような存在が沖縄(ソ連が当時、キューバに核兵器を持ち込んでいた)で、沖縄に全てを押し付け自らの地域に不利益が及ばないようにするというのは核の廃棄物問題のようだと理解しました。
沖縄戦に引き続き、核問題の映像を見てもやはり何故沖縄県民が本土復帰を望んだのかが分かりませんでした。高まる米軍への不満を押さえ込み、県民を丸め込むための沖縄返還という側面が分かったのみです。外務大臣のお話を聞く限り彼の保身のため相当沖縄は軽んじられていたように思います。実際に大臣の話を聞いたということはないにせよ沖縄への態度に本心がにじみ出ていたと思うのですが…。
軍事基地の設立や核爆弾の配備、訓練中の事故等の話を聞いて自由とは何かを犠牲にすることで得るものなのだとつくづく。誰かの自由が誰かの自由を阻害するというのは悲しいことです。
少し話はそれますが、沖縄の米軍関連問題の報道は「日本」としての被害者意識を煽るだけで沖縄への気遣いや具体的な処置という方向に意識が向いていない気がします。」(岸田)

「沖縄戦」から「基地と核」を見ていったことにより、翻弄された沖縄の人たちがなぜ本土復帰を望んだのかを疑問に感じていった様子が見えます。矛盾に満ちた形で「本土復帰」を受け入れていったプロセスを、その複雑さも含めて、どのように理解できるか。「沖縄への気遣い」というものが必要なのだとすれば、まずその複雑な事情を理解するところからのように思います。

岸田さんが批判している「外務大臣」というのは、小坂善太郎外務大臣で、1961年のラスク米国務大臣との会談で、メースなどの武器持ち込みを事前に発表しないでほしいと、日本側から提案したという話が出てきます。当時琉球政府議員の古堅実吉さんも、番組の中で憤りを表明しています。

印象に残った映像表現


遺族の写真の見せ方
グラフによる解説。
核ミサイル誤発射事故の再現CG
名前が表示される際のエフェクトが核爆弾を模している
立てかけた写真に字幕を出すことで写真の人々が実際に話しているかのように見せる
航空機の音
発射場内の当時の写真

取材案:伊江島・読谷・核密約、どれも容易ではない

伊江島のことが印象に残っていたようで、何人かから案が出ました。伊江島にしても読谷にしても、みんな知らされていなかった「核」の問題について、取材するのは簡単ではないでしょう。当時琉球政府で働いていた人たちに話を聞くことはできるかもしれないですね。

もちろん基地問題そのものについては、沖縄の人々のさまざまな意見を取材したいという意見は出ました。これは可能かもしれないですね。

「核抜き本土並み」返還の際、密約を作った若泉敬

1969年に沖縄返還について日米が合意した時に、核兵器が搭載されたメースBも撤去されています。しかし実際には、有事の際には核を持ち込むということについて、日米が密約を結んだとされています。この密約の交渉を行ったのが、のちに京都産業大学の教授となる若泉敬さんです。

1972年に「核抜き・本土並み」をうたう沖縄返還が実現しましたが、その裏では日米間で「有事の核の再持ち込み」を認める密約が取り交わされていたことが1994年に出版された「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」によって発覚します。その著者にあたる若泉敬さんは自身が佐藤栄作首相を説得し、この密約の草案を作成したと暴露しました。その後「結果責任」を最期まで背負い続け、暴露の2年後に自殺しています。

学生メンバー宮澤によるまとめ

若泉さんについては、NHKが2010年に「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」を制作しています(今回は視聴していません)。



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