知らなかった「対馬丸事件」
沖縄戦について、今回始めて詳しく学び議論しました。ただ、「地上戦」としての沖縄戦以外にも、さまざまな出来事が起こり、悲劇がありました。ここでは学童疎開船が遭遇した事件「対馬丸事件」についてまとめています(担当:岸田)
「対馬丸とはかつて存在した学童疎開船です。日本郵政により貨物船として作られた対馬丸は第二次世界大戦時に徴用され、戦争末期には疎開船となりました。対馬丸は1944年8月22日、沖縄から長崎へと向かう学童疎開の最中、米軍の潜水魚雷に撃沈され多数の犠牲者が出ました。これを対馬丸事件と呼び、乗客1788人のうち1484人が死亡しました。
当時米軍はこの海域を「丸の死体安置所」(「○○丸」という通過する船乗の名前をすべて把握していた)と名付け、次々と艦船を撃破していました。生存者の多くは奄美大島に漂着し島民による救護を受けました。
なお、この時共に九州へと向かっていた和浦丸、暁空丸は魚雷から逃げることができました。事件後、対馬丸の沈没には厳重な箝口令が敷かれ県民には正確な情報が伝えられず生存者は口を噤むことを強要されました。国は沖縄での決戦が予想される中、厳しい食糧事情もあり「足手まとい」になることが見込まれた子供達を疎開に促しており、この事件が疎開の妨げとなることを危惧したのです。実際、沖縄からの学童疎開は沖縄戦直前の1945年3月まで実施されました。その後、生存者は生き残ったことに対し、遺族は送り出したことに対し強い自責の念に駆られたといいます。これまで遺族には国から対馬丸遭難学童遺族給付金が支払われてきましたが、2021年に対象者が亡くなり事業は終了しました。2004年には那覇市に対馬丸記念館が建てられ対馬丸事件を後世に受け継いでいます。」
対馬丸記念館 | 対馬丸記念館は、対馬丸事件の犠牲者の鎮魂と、子供たちに平和と命の尊さを教え、 事件を正しく後世へ伝える為に対馬丸撃沈から60年目に沖縄県那覇市に開館しました
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?