対馬丸記念館で子を想ふ #29
大学から東京にいた私は、沖縄の事をあまり知りません。
いや、知っていると思っていましたが、まだまだ何も知らないことに気づかされました。
その穴を埋めるように、沖縄の歴史に触れる場所へ行くことがあります。
先日は「対馬丸記念館」に行きました。
対馬丸とは
対馬丸は沖縄から長崎への疎開船です。
1944年8月22日に潜水艦の魚雷が当たって沈没しました。
疎開者は1,661名中、1,418名(うち学童775名)が犠牲になりました。
疎開船は軍艦であることが条件だったものの、対馬丸は古い貨物船でした。
子供だけでも安全な疎開させたい、親御さんのそういった願いは叶わなかったのです。
また、生存者の方たちには、「沈没したことを話してはならない」と箝口令(かんこうれい)が出ていたようです。
そのため、正式な調査もされず、犠牲者の数さえ正確な数字ではないそうです。
私の父も疎開地生まれ
私の父は1945年(昭和20年)の終戦年の生まれです。
祖母が疎開していた台湾で生まれました。
何かのタイミングがずれていたら、祖母が犠牲になり、父が産まれていなかった可能性もあります。
妻の地元でもある
対馬丸記念館があるのは妻の地元ながら、来るのは今回が初めてでした。
存在は知っていたものの、なぜここに記念館があるのか不思議だったそうです。
学童の犠牲者を見ると妻の出身校の名前がたくさん並んでいました。
それでなぜここに記念館が建てられたのかを知りました。
私の子供たちと近い年齢もあった
犠牲者の中に、同じ名字で4歳、2歳、0歳のお名前もありました。
もし、兄弟だとすると、私の子供たちと同じくらいの年齢です。
自分の子供くらいの子たちが真っ暗な海に投げ出されたと考えると、親御さんの気持ちが伝わってくるようで、自然と涙が出そうになりました。
全く他人事じゃない
祖母の疎開時期、妻の地元、子供と同じ歳の犠牲者。
全く他人事ではない事件なんだと改めて感じました。
安全な土地に行けると聞かされて、友達と修学旅行気分で乗っていたノアの箱舟、それは熟睡していたはずの夜の10時過ぎに地獄行きとなってしまいました。
もしかしたら、疎開船が沈没したこと自体は仕方がないことなのかもしれません。
戦争という何が起こるかわからない状況で、少しでも子供たちを助けるための最善の策だったのかもしれません。
しかし、軍艦で無い船を使ったこと、沈没に関する箝口令が出たこと、遺骨引き上げなどの正式な調査が行われていないことというのは、納得ができません。
犠牲になった方々の気持ちを想像するとともに、自分たちにこれから何ができるのかを考えなくてはなりません。
それは、他の記事でも書いている通り"沖縄が~"というだけの話ではありません。
"世界が~"、"日本が~"という視点を持たなくてはなりません。
沖縄を守るため、だからこそ、もっと大きな視野で、深く知り、広く行動していきたいと思います。
次は子供たちも連れてこようと思います。
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