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瀬長亀次郎だけではない、米施政権下の政治家たち

2017年に公開された映画「米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー~」は、米国施政権下の沖縄で、摩擦を恐れずに戦った政治家、瀬長亀次郎さんを描きました。アメリカの統治に妥協せずに戦い続けた「反骨の政治家」として、その親しみやすい人柄も含めて、瀬長は描かれています。琉球政府の行政主席を始めとして、米国施政権下で政治家であり続けた人たちは、さまざまな制約の中で、住民の自治権の拡大を求めて、それぞれが戦ってきたとは言えそうです。どんな人達がいたのか、以下は、学生メンバーの岸田さんが調べてみた成果です。

~行政主席~

1952年、琉球列島米国民政府の下に琉球政府が設立されました。歴代行政主席は、この琉球政府のトップにあたります。

行政主席の多くは、米軍の任命によって選ばれていたこともあり、どちらかというと親米よりな方が多い印象があります。いずれにせよ彼等は米国の強権と沖縄住民の望みの板挟みとなりながらも沖縄の未来を模索しました。以下に歴代行政主席とその業績を記します。

比嘉秀平(1952~1956)

比嘉は、軍用地代一括払いに反対を示し、渡米したのですが、米政府には認められませんでした。自らを米国と住民の緩衝地帯とする主席緩衝地帯論を説きました。比嘉のその表現の通り、その後も行政主席は、米国と住民の緩衝地帯となっていきます。

当間重剛(1956~1959)

米軍用地問題折衝のため渡米し、軍用地問題や講和発効前損失補償について一定の成果をあげました。一方で沖縄返還に関しては時期尚早と主張しました。

大田政作(1959~1964)

自治権の拡大と主席公選を訴えるも実らず、保守的思想から当時の高等弁務官と衝突し、行政主席を辞任しました。

松岡政保(1964~1968)

権限拡大と民政拡大を掲げ、基地作物論を説きました。日本復帰ではなくアメリカ統治を得策と考え、このことは沖縄系アメリカ移民によってもたらされるべきであるとしました。

屋良朝苗(1968~1972)

1968年の初めての直接選挙で選ばれた革新候補。沖縄返還協定の内容を基地のない平和な沖縄に繋がらないとして抗議、復帰準備に関する建議書を携え上京するも受け入れられることはありませんでした。

~那覇市長~

瀬長亀次郎

元沖縄那覇市長沖縄人民党に所属し、結党者の1人でもありました。琉球政府創立式典で宣誓を拒否したことを始めとし、米軍基地反対運動や数々の演説等、住民に積極的に働きかけることで自治に向けた団結を促しました。瀬長は住民達の代弁者でした。米軍から睨まれ投獄されることもあれば那覇市への出資差し止めや預金凍結に遭い、選挙妨害をされたこともありましたが市民からの凄まじい支持によりこの危機を切り抜けます。しかし、瀬長を恐れた米軍はついに布令改定に踏み切り瀬長の不信任案が可決され、さらには被選挙権も奪われます。それからしばらくは人民党員として過ごし、1970年に選挙権を取り戻し戦後沖縄初の国会議員となりました。2013年に不屈館が開館し、2017年には映画米軍が最も恐れた男、その名はカメジロー、2019年には米軍が最も恐れた男カメジロー不屈の生涯が公開される等、現代でも彼は高く評価されています。

~占領下沖縄の政治家であるということ~

行政主席といい市長といい民意を汲みつつ米軍ともそれなりの関係を築かなければならない立場はまさに板挟みと呼ぶに相応しく、複雑な心中極まりなかったと思います。民意に偏ると米軍が頑なになり、場合によっては弾圧されて沖縄民に報いるという目的を遂行できなくなる。だからと言って米軍に偏ると沖縄民から総スカンを食らい結局立ち行かなくなるわけです。そこに自らが沖縄民であることの思いや政治思想が絡み合っていたのかと思うと想像を絶する苦悩があったのではないでしょうか。

瀬長亀次郎とそれを支えた人々を記念した資料館として、那覇市内に「不屈館」が設置されています。


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