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知らなかった「沖縄移民」

今回の授業は、新型コロナウイルスに翻弄され、沖縄に渡航できなくなった中で行われたものです。途中、沖縄にはいけないけど、本州の中であればどこか行けるかもと思い、「沖縄」に関連する場所を調べていく中で、一つキーワードとして浮かんだのが、「移民」でした。具体的には横浜市鶴見区に行ってみるという案がうかんだのですが、残念ながらそれも果たすことはできませんでした。ですが、テーマは残りました。ハワイや南米など、各地に移民した沖縄の人々は多く、その実態を学んでいくことは意義があるのではないかと考え、学びを深めました。

沖縄では、県民の移民の歴史をまとめた資料を作成し、公開しています。1899年に始まったハワイへの移民。その背景には、経済的な理由や徴兵忌避といった事情があげられていますが、複合的な要因があったようです。

ハワイへの移民の始まり


琉球王国の時代、沖縄には土地を集団で共有する地割制と呼ばれる土地制度がありました。国の崩壊と明治政府に近代化されることによってこの制度は廃止され、人々は土地を所有して売ったり抵当にしたりして財産を得ることが可能になりました。これにより、移民費用にすることができたことが、移民の始まる大きな理由だと思われます。沖縄から初めて海外集団移民がハワイへ向かったのが1900年のことです。当時の沖縄の暮らしは貧しく、出稼ぎや金儲けの経済的な理由も移民が盛んになった理由のひとつでした。当時の沖縄県も県内の過剰人口を抑えることや移民先からの送金による県経済の救済を期待して移民政策を進めました。また、徴兵忌避や、沖縄の地理的な位置からくる自然条件の厳しさも考えられます。

開拓時期の移民生活は過酷なもので、厳しい監視のもと重労働を行いました。また、移民地での言葉や習慣の違いは、くらしの大きな壁となったのです。



移民の父當山久三


当初沖縄からの移民を推進したのは、「沖縄移民の父」と呼ばれる當山久三です。




横浜・鶴見の沖縄タウン(担当:岸田)

神奈川県横浜市鶴見区。ここには沖縄移民の2世3世が根付いています。沖縄からの移住は1897年頃に始まり、1900年代から1960年代にかけて多くの沖縄の人々が鶴見区に移住しました。当時、鶴見区の河川付近には工場が立ち並び、沖縄の人々はそこに仕事を求めました。彼等の就く仕事は所謂3K(きつい、汚い、危険)で廃棄物や危険物の運搬に従事していたようです。沖縄の人々は文化の違いによる差別を受け、そのためか沖縄出身者と内地の人々にはあまり交流がなかったといいます。また、鶴見区の隣に位置する川崎区には富士瓦斯紡績という紡績工場があり、そこでは沖縄出身者の女性が多く勤務していました。彼等はモアイという自給自足の組織を営みました。現在、この土地は沖縄タウンと呼ばれ、仲通や潮田町に多くの沖縄出身者が住んでいます。

沖縄タウン鶴見マップ

https://www.city.yokohama.lg.jp/tsurumi/shokai/odekake/okinawa-map.files/okinawa-map.pdf

大阪府大阪市大正区のリトル沖縄(担当:岸田)

大阪市大正区は区民の4分の1が沖縄にルーツをもつ人々で、その数は約7万人とされています。大正区への移住は第一次世界大戦後の飢餓状態、「ソテツ地獄」の中で、増加しました。当時大阪は紡績産業によって栄えており、出稼ぎ労働者として沖縄民は大阪に渡り、工場が多かった大正区に居を構えることとなります。大正区には大阪紡績工場があり、そこで多くの沖縄出身女性が働いていたという記録が残っています。横浜市鶴見区と同じく沖縄出身者は文化の違いから差別にあうこともありましたが、ゆいまるの精神で団結し助け合うことで差別に耐えました。現在大正区で最も沖縄色が色濃いのは通称サンクス平尾と呼ばれる平尾本通商店街。そんな大正区はリトル沖縄と呼ばれ地域住民から親しまれています。なお、現在サンクス平尾は店舗の約3分の2が店仕舞いしており年々シャッター街の一途を辿っているようです。


南洋群島に向かった沖縄移民

第一次世界大戦の後、ドイツの海外植民地であったニューギニアの地域の一部を日本が委任統治することになりました。日本は南洋庁を設置し、国策会社南洋開発を設置して、開発を進めていきます。現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦に相当する地域です。

日本人の移民も徐々に増え、1943年には日本人人口の割合は65%に達し、沖縄県人はそのうちの59.2%に達しました。南洋興発の初代社長が移民募集の際、沖縄県人を優先して移民をとるという方針を示したとされています。

太平洋戦争では、昭和19年(1944年)以後、米軍との交戦により、各島で多くの犠牲が出ています。軍民一体となった戦いは、沖縄戦と同様の悲惨なもので、ここでも沖縄の人々が多く犠牲になっています。



「日系」として沖縄の人々と対面した比嘉トーマス太郎(担当:田村)

ハワイ移民から半世紀もたたずに太平洋戦争が起こりました。日米開戦によって、ハワイの沖縄県人たちは両国の板挟みとなって苦しい立場に立たされます。米国やカナダでの日系人リーダーたちは、敵国の人間として収容所に送りこまれ、スパイ容疑をかけられることも少なくありませんでした。移民2世である日系人も、1940年のアメリカの徴兵法で米軍として兵役につきましたが、真珠湾攻撃による日米開戦で、米国は日系人の徴兵を取り止めました。太平洋戦争に駆り出されていた米国の日系人は元の部隊から切り離され、1942年に最も危険なヨーロッパ最前線に向かうことになりました。日系人は自国にいる同胞のため 病気の兵士でさえも無理をして戦場に行くことを志願したといいます。日系人だけで組織された部隊は第100歩兵隊と呼ばれました。この隊に入隊していた一人が、比嘉太郎トーマスです。彼は第100歩兵隊としてイタリア戦線に派兵され、戦争に負けたイタリア人が体を売ったり残飯の取り合いをしたりと、生きるためなら何でもする現状を目の当たりにしたことからたことから、沖縄の人々を助けたい、自分が沖縄に行けば救うことができる、という思いを持ちます。彼は宣撫班であったため、単独で計画を立てて行動することが許されました。これが沖縄の人々の救済に大きな役割を果たします。沖縄戦の最中、通訳兵として現地へ行き、壕の投降を呼び掛け多くの人の命を救いました。また、戦後も沖縄の戦災復興運動や政治運動に取り組み、力を尽くしました。



八重山への戦後入植(戦後開拓)

荒廃した沖縄本島から、八重山諸島などへの入植も行われています。

74.戦後開拓の村々 http://115.31.195.15/100000/100500/ishigaki_fuukei_rekishi/074.html

南米移民


戦後、沖縄に限らず、全国から多くの人々が南米に移住しています。南米移住者の中でも沖縄県の人の数がもっとも多かったとされています。現在もブラジルに渡った沖縄県民の子孫が多く暮らしています。
1968年に、南米に移住する人々の様子を伝えたドキュメンタリーを撮影し、10年ごとに撮影を続け、50年目の消息を追った作品が、2018年にNHKで放送されています。

(ブラジル移民について:担当 五十嵐)

最初のブラジル移民「笠戸丸」(1908年)約800人の中で沖縄県人は325人を占めた。160人(県人10人)はさらに南下し、アルゼンチンに再移住した。
皇国植民会社がサンパウロ州と締結した契約には、「皇国殖民会社は、向こう3年間にコーヒー農場の農業労働者として家族移民3千人を募集し、ブラジルのサントス港まで輸送すること。」とあった。 しかし、コーヒー園での労働は過酷で思っていたほど収入も得られず、夜逃げする人が続出した。もともと数が多かった沖縄県人は逃亡者が多いように見られ、日本国外務省は沖縄移民のコーヒー耕地定着率の悪さを理由に1919年に実質的な沖縄移民禁止処置をとり、沖縄県人に限り移民を禁止した。解除されたのは1926年。この時、差別的措置に抗議したのがブラジル沖縄県人会の前身である球陽協会で、県系人一丸となった訴えによって禁止の解除を勝ち取った。その後も県人会は移民一人一人の心の支えとなり、沖縄コミュニティーの核として機能してきた。

戦後の移民の多さの主な理由は沖縄戦。那覇市の小禄からだけでなんと4000人がブラジルへ移住したという。静岡県の全移住者数が4881人であり、その82%に匹敵する。面積あたりで日本一移住者数が多い地区だろう。なぜ、そんなにたくさん移住したのかというと、当時、那覇軍港、後に海軍司令部、横に空港という立地だった。沖縄戦で「1平米に爆弾二つぐらい落ちた」という猛烈な爆撃を受けたという。だから戦前だけでなく、戦後も家族を呼び寄せて大量にブラジルに来ている。 沖縄の地元紙には「ブラジルには明治の沖縄が残っている」という言葉よく出てくる。それは大量に移住した結果、当時の生活習慣と言葉がブラジルに移植されて残ったからである。




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