教師でもない私がなぜ教育を語るのか

「教師でもないのに教育を語るな」「塾を10年しかしてないのに教育を語るな」と指摘されることがある。学生は指導したりしなかったりだが、教師ではないのはその通り。塾を10年しか主宰していないのも事実。なのになぜ私は教育(という言葉が私はあまり好きではないけれど)のことをよく語るのか。

興味深い指摘なので、このことについて言語化してみる。
一つ思いつくのは、「過去のことだから話せる」という面がある。現在でも子育ての相談を受けることがあるのだけれど、誰のことか特定されるのを避けるため、リアルタイムのことは話さないようにしている。

もし私が今も塾を主宰していたら、こうしてツイッターで色々論ずることはできないだろう。現在進行形で指導している子どものことを話題にしていると思われては現場が混乱しかねないからだ。このことは現場の第一線で働く教師の方にも言えると思う。現場を大切にしている教師は、外に向かって語れない。

だから、相談受けるにしても比較的少数で、リアルタイムで受けている相談とは別のテーマで論ずることがしやすい私のような立場の人間の方が、外に発信しやすいという事情がある。特に教師として現場に立つ場合、多くの子どもを抱えているため、どんなテーマを語るにしろ、該当する子を必ず抱えている。

となると、現場に立つ教師はいつまでたっても語ることができない。ああしたケース、こうしたケースを語るにも、「うちの子のことですか?」と反応されかねない。これでは恐くて教師は外に発信できない。だから、教師であるからこそ教育を語れない、という皮肉な状況があるように思う。

となると、自然の流れとして、教師が語るとしたら、教育理論に傾きがち。具体的な事例を語ると現場の子どものどの子かに該当しかねないため、理論なら無難に話すことができる。教師の方が外向けには理論を語りがちになるのは、現場で起きている具体例を語るわけにいかない事情があるように思う。

でもこれが習い性になると、具体的事例に沿って思考することがかえってできなくなり、理論から語る癖がついてしまう。このため、教師の中では話が通じても、外の世界にはよくわからない語り口になりかねない。現場を持つからこその悩みなんじゃないかな、と思う。

その点、私は学校の先生のように具体的にクラスを持っているわけではない。私が具体的事例を出しても、誰のことだか特定できないようにしておけば、誰のことか分からない形で語れる。教師ではないからこそ具体事例を考察し、言語化することができる、という面があるように思う。

あと、日本の教師のほとんどが「たくさんの子どもを一度に抱え過ぎ」という現実問題がある。一人一人を丁寧に見たくても、抱えている子どもの数が多すぎて一人に十分な時間を割くことができない。このため、具体的事例を深掘りしようにも、どうしても浅い付き合いしかできない面がある。

私は不登校の子を自宅に預かって数か月一緒に暮らしたりしてきた。一緒に料理をし、洗濯物を畳み、生活全般のことを一緒にやりながらついでに勉強を見る、といったこともしてきた。家庭内暴力がひどくて家に置いていると事件になりかねなかったため、緊急対策としてやむを得ず、という事例が複数。

ここまでやることは、現在の教師では無理だろう。公立中学で学年最下位の成績の子を特別に指導する、なんてお金にもならない、手間ばかりかかって「○○進学校に合格!」なんて塾の宣伝になるような結果も出ないことにかかりきりになることはできないだろう。

私の塾は比較的預かる子どもの人数が少ないからそれができた。たくさんの子どもを同時に扱わねばならない教師と違い、その家の父親の悩み、母親の苦悩の話を聞き、家庭の問題を解きほぐしながらその子の課題を解決しよう、というやり方をとれたのは、塾だったから。まあ、塾としても変わっているけど。

こうした体験をすることは、教師であっても難しいように思う。塾の経営者でも困難だろう。そう考えると、私だからこそ言語化できることがあるんじゃないか、とも思える。私だからこそ見える景色もあるんじゃないか、という気がする。だから、その視座から言語化を試みるようにしている。

私は現場にいらっしゃる人から現場の話を聞くのが大好き。で、私の見解を現場から見た感覚で指摘してくださる方がいる。私はそういう時は話を伺い、その方の体験を自分の中に取り込み、意見を修正するようにしている。こうして、私以外の方の現場の体験で意見をアップデートするように心がけている。

ところが、現場の教師の方は、私に教えてくれたようなことを外部に発信できない。でも、その情報はとても有益だったりする。で、私はどの教師から聞いたかは伏せながら、誰のことか特定できないようにカモフラージュもしながら、そうした具体的事例からさらに考察し、言語化するようにしている。

私は幸か不幸か、言語化が得意な方らしい。私は、私の薄い体験だけでなく、多くの教育に携わる方の話を伺い、仮説と仮説を戦わせ、両方の仮説を包摂しながら現場の出来事とも食い違いが起きない新たな仮説にアップデートする、という作業を繰り返している。こうした作業は、

かえって私のような立場の人間の方が有利な面があるらしい。現場の教師だと、現場を持つがゆえに言えないこと、でも世間に広く知っていただくことで現場の問題が軽減されそうなこと、それを私という言語化装置をうまく活用して、世に広げることはそれなりに有益なのではないか、と思う。

有難いことに、ツイッターでもFacebookでも、数多くの教育関係者とつながることができている。そうした方たちの話に耳を傾け、さらに言語化を試み、現場を知る人から意見を聞き、さらにアップデートする。そうした作業を繰り返した言葉は、現場の教師の方にも評判がよいみたい。

それはまあ、そうかもしれない。現場のみなさんの意見に耳を傾け、教師の方々の意見で修正を加えながら言語化したものなのだから。私の言葉はあくまで私が紡いだのだから第一義的に私に責任がある。ただ、もし私の言葉がある程度有効なのだとしたら、それは現場の教師の方たちによる「監修」のおかげ。

私はいわゆる教育「理論」にあまり興味がない。こと教育に関しては、まだ絶対的な理論は打ち立てることができていないし、まだ時期尚早だとも感じているから。それよりは現場の事例を収集し、そこから知恵を学び取る作業の方が重要なように感じている。

たまたま、そうしてたくさんの事例から紡ぎあげた言葉は、既存の教育理論にも合致するようで、そのことを教えて下さることがある。ただ、理論を語るとどうしても言葉が難しいし、かえって何を話しているのか分からなくなる。私はなるべく「具体」に寄り添う形で知恵を抽出したいと考えている。

私は教師でもない。塾を主宰したのも10年でしかない。ただ、ずっと子どものことに強い関心を抱き、観察を続け、指導力のある人を見つけては観察と仮説を重ね、こういう場合にはどうしたらいいのか、というシミュレーションを重ねてきた。そして言語化を試みてきた。

それがたまたま、子どもを持つ親御さんや、教師の方たちにも共感してもらえることが増えてきたらしい。そしていろんなご意見を頂くことで、さらにアップデートを可能にしてもらえている。私のような立場の人間が教育に関して言葉を紡ぐのは、かえって私のような人間だからこそできる面もあるのかも。

と思って、子育てのこと、教育のことを、言語化することを今後も試みていきたいと思う。まあ、私が強い関心を持っているからやっていることで、もし仮に興味を失うことになれば、たぶん語らなくなると思うけど。子どものことって本当に面白いから。少なくとも私にとっては。

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