教えるよりもセンス・オブ・ワンダー

塾を始めたころ、どんな教育本を読んでも「教える」ことが基本に据えられていた。で、私も教えるのだけれど、熱心に教えれば教えるほど空回りする感があった。私はもともと成績が非常に悪く、物わかりも悪かったから、分かりやすく説明する自信はあり、子どもにも「分かりやすい」と好評だった。だが。

子どもは「ものすごくよく分かった!」と感動してくれ、実際に解けるようになるんだけど、翌日になるときれいさっぱり忘れている。「感動したことは覚えている」というのだけど、どうやるのかさっぱり。で、また教える。また忘れる。その繰り返し。どう指導したらよいのか悩んでいた。

そんなとき、レイチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」を読んだ。衝撃を受けた。他のどんな教育本を読んでも書いていなかったことがそこには書かれていた。カーソンは驚くべきことに、「教えない」ことを書いていた。

カーソンは甥のロジャーを夜の海辺に連れて行った。波が岩肌にぶつかる轟を一緒に聞いて、体に響くその大音響を感じながら、笑った。
雨降る森の中を探検し、小さなコケにしずくが光っているのを見て「リスさんのクリスマスツリー」と二人で名付けた。
窓辺で夜の月を飽かず眺めていた。

カーソンは、甥のロジャーと自然の不思議さ、神秘さをともに体験し、味わっていく。その時々で、二人にだけ通じるあだ名をつけたりするけれど、カーソンは名前を教えようとはしなかった。海洋学者として、様々な生物の名前を熟知していたにもかかわらず。

カーソンは、生物の名前を知り、覚えることはさして重要ではないという。それよりも、自然や生命の神秘さ、不思議さに目を瞠り、驚く感性(センス・オブ・ワンダー)が大切なのだと説いた。私はここの部分を読んで衝撃を受けた。そんな教育法があったなんて!

すさみの海で泳いでいると、親子が帰ろうとしていた。「もしこの後ご予定がないのでしたら、星を見てからにしたほうがいいですよ。ここ、本当に星がきれいに見えますから」とお誘いし、親子はもう一晩、海辺で過ごすことにした。食事を終えた後、明かりを全部消して空を眺めた。

「残念、くもっていますねえ」とお父さん。「違いますよ、雲に見えるの、これ全部星です」と私が言っても信じようとしない。海の上に浮かぶ小さな雲があったので、それと動きを比較してみるように言うと「本当だ!これ、全部星なんですか!」雲と見まごうばかりの満天の星。

両親が心底驚いている様子を見て、子どもも、何かとてつもないものを目にしているらしい、と思って、空をジッと見つめている。
「ほら、あれだけゆっくりだけど一つだけ動ているの、あるでしょう、あれ、人工衛星」
「え?人工衛星って見えるんですか?」
子どもと、ほらアレアレ!へー!と。

「星って、何百光年も離れていて、光が届くのに何百年もかかるんですってね。もしかしたら今見えている星の中には、爆発してすでに存在していないのもあるのかも」というと、「え?見えてるのにもうないってことがあり得るんですか?へええ!」と驚くご両親。ますます熱心に眺める子ども。

結局その親子は、私たちが寝ることにしても夜空を眺め続けた。翌日、私たちが帰ろうとすると、「もう一泊して星を眺めようと思います」と仰っていた。すっかり星の魅力にハマったらしい。

ここで大切なこと。私がいろいろ解説したことは余計なことだということ。それよりも重要なのは。

子どもと共に驚き、星を楽しんだことだと思う。おそらくその子どもは、星にすっかり興味を持つことだろう。テレビ番組で宇宙のことを取り上げていたら、見たがるようになるだろう。図鑑を見ても、あの時見た星のことが書いてある!と楽しめるようになるだろう。そこから知識はどんどん広がるだろう。

そうか、教えることよりも、生きているこの世界の不思議、神秘に目を瞠り、驚くことの方が大切なんだ。そして尽きせぬ興味が湧けば、子どもは勝手に学ぶ。大人が教えなくても。この世界の面白さに気づいたら、子どもは放っておいても学ぶ。まずはこの世界の不思議に驚くことが大切なんだ!

それから私は、指導の方法をガラリと変えた。教えるのではなく、何を教えないかを意識し、子どもが自らつかみ取ることを重視するようにした。子どもだけではどうしても気づきようがないことだけは教えるけれど、子どもが手持ちのカードで何とか克服できそうだと見たら、教えず、見守る。

「どうにか、自分の力で克服しますように」と祈る思いで見ていると、「あ!こうすればいいのか!」と、子どもは発見する。私は「よくぞ自分の力でそれを発見した!」と驚く。二人でハイタッチして喜びを分かち合う。こうすると、子どもは自分の力で克服する楽しみを知り、勝手に学びだす。

この世界は不思議で満ちている。氷の上は滑りやすいけれど、なぜ滑るのか、本当のところはいまだにわかっていないらしい。この世は「本当のところ、よくわからない」ものだらけ。なのに大人はどこかで解説を読んでそれで分かった気になってしまう。それを子どもに教えて教えたつもりになってしまう。

しかし、「分かったつもりになる、教えて分からせたつもりになる」というのは、実につまらないことなのかもしれない。推理小説の真犯人を読む前から教えてしまうようなもの。映画のクライマックスを観る前から教えられてしまうようなもの。それって何が楽しいのだろう?

知らないでいる、教えられないでいる状態で、手持ちの知識と技術を駆使してなんとか理解する、解決する、というのはスリリングで楽しい。ゲームと何ら変わらない。そして楽しいことはどんどん続けたくなる。ますますやり込みたくなる。それが「学ぶ」ということなのではないか。

学ぶこととは遊ぶこと。遊ぶこととは学ぶこと。「遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん」という歌が昔あったという。人間は遊ぶのが大好き。そして学ぶという行為は、最も楽しい遊びの一つ。しかしその遊びをつまらないものにする行為がある。それが「教える」ということ。

子どもがどこかで何かの生き物の名前を憶えて「ねえ、これってこういう名前なんだって!」と語った時、もし大人が「それについてお父さんはもっと詳しいよ」と語り、教えたとしたら、子どもは鼻白むだろう。子どもは親に驚いてほしかったのであって、ネタばらしされたかったわけではないのだから。

子どもは、自分の成長で親を驚かせたい。初めて立った時、初めて言葉を話したとき、親が驚き、狂喜乱舞したことをどこかで覚えているのだろう。できなかったことができた、知らなかったことを知るようになった。その変化、差分に気づき、驚いてほしいのだろう。ならば。

親は驚けばよいのだと思う。子どもが自らの力で学び取った奇跡に。自分からそれを知ろうとした、その能動性が発生した奇跡に。その能動性は、親にはどうしようもないもの。親が発生させようとしても発生させられないもの。だからこそ奇跡。その奇跡に驚けばよいのだと思う。

そして面白いことに、能動性が発生した奇跡に親が、大人が驚いていると、子どもはますますその奇跡を起こし続けようとする生き物であるらしい。子どもはどうやら、驚かすのが大好き。もっと驚かせようとしてますます能動的に動くようになる。

ここで注意が必要なのは、「結果」「成果」のような外面的なことに驚かないようにすること。たとえば「100点取ってすごいね!」と驚くと、子どもは(大人もだけど)かえってやる気をなくす現象が起きることがある。「今回はたまたま100点取れたけど、そういつもいつもとれるわけないよ」と。

で、「俺は本気出せば100点取れる人間だけど、今はやる気しないからやらない」という論理を発明して、そこに逃避するようになるケースが結構ある。「俺はやれば100点取れる男」というバリアを張って、傷つきやすい内面を守ろうと必死になってしまう。

私は、驚くポイントを工夫・挑戦・発見に絞ったほうがよいように思う。「これ、どんな風に工夫したの?」「よくこれ、挑戦する気になったねえ!」「よくこんなことに気がついたな!」と、工夫したポイント、挑戦した勇気、発見した観察眼に驚くと、子どもはますます工夫し、挑戦し、発見しようとする。

工夫、挑戦、発見は、過去の功績で自分を飾るという逃避ができない。常に新しい工夫、挑戦、発見が、驚かすには必要。同じ工夫だと「あ、それ前も見たね」となってしまう。だから、驚かそうとすると、常に新しい工夫、挑戦、発見をしようとする。とどまることがなくなる。

工夫、挑戦、発見する子どもは、当然ながら能動的となる。能動的でなければできないことだから。だから、工夫・挑戦・発見に驚くようにすると、子どもは自然と能動的になる。実はその能動性が発生した奇跡に驚いているのだけれど、その奇跡が発生するのは、工夫・挑戦・発見しようとするから。

工夫・挑戦・発見しようとする子どもは、自然と物事をよく観察するようになる。これはどう料理したら解決するか、と、工夫の糸口を見つけようと観察する。新たな挑戦をしようとすれば、どんな課題があるのか観察せずにはいられなくなる。何か発見しようとすれば、鵜の目鷹の目で観察せざるを得ない。

観察とは、「見る」と違う。「見る」はしばしば、自分が既に知っていること、気づいていることしか見えない現象に陥りがち。道端に落ちている石ころ(路傍の石)に気づかず、見えていることにさえ意識できないように。でも、観察はそうではない。

自分の気づいていないこと、知らなかったこと、今まで見えていなかったことに気づこうとすること。これが観察。この観察をするようになると、日常的に驚きの発見をすることになる。常に工夫の余地があることに気がつく。挑戦し甲斐のある課題を見つけることになる。

教えるよりも、一緒に自然の中を歩き、あるいは日常のあたりまえの風景をよく観察し、そこから不思議を見出し、工夫・挑戦・発見を目指す。すると、子どもは自然と学ぶ意欲が増し、いろんな発見を立て続けにしていく。

そうしたことに思い至るきっかけになったのが、レイチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」。とても薄い、とてもきれいな写真がたくさんちりばめられた本で、とても教育本とは思えないもの。でも、私には転機になった本。ぜひ、ご一読を。

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