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朋有り、遠方より来る

朋有り、遠方より来る、また楽しからずや。 (論語・学而)

 この連載も50回となった。それを祝うためではないが、タイから湯治にみえられた橋爪博士夫妻に合わせて、ユネスコ職員時代の友人たちが別府温泉に集まって、大いに語り合った。
  
 30年前にパリの知的国際協力機関でともに働き、セーヌ河を見下ろす丘でいっしょにバーベキューを楽しんだ仲間は、それぞれに齢を重ねて、米寿、傘寿、古希、還暦を迎えたが、故国を離れて国際機関で孤軍奮闘した経験をもつからか、みんな一様に元気で、30年間のご無沙汰などなかったかのように、4時間みっちり、昔話に花を咲かせ、議論を続けた。
 身体は老いても、知能は円熟を重ねる。人間は死ぬまで、学習し、知能を高めつづけるべく生まれた生物である。生涯学習というものが大切であることを、あらためて感じた。

さまざまな人の助言と後押し

「クモン、君はたった2年しかいなかったのか? ずいぶんと一緒にメシを食い、話もしたから、そんなに短かったとは思わなかった」とアキオがいう。本当に凝縮して濃密な時間だった。ユネスコの2年間は、僕にとって青春そのものだった。

「君は、商社マンだったのに、どうして自然科学局に配属されたの?」

 当時、人事局に森山隆人事局長がおれらた。僕の履歴書は、ビジネスマンとして経理局に回されるはずだったのだが、森山さんが、僕の地球観測衛星の経験を評価してくれ、経理ではもったいないと、自然科学局につないでくれたのだ。僕のユネスコ生活は、森山さんと前川さん抜きには語れない。

「君がユネスコを去った直後に、ユネスコに送った手紙は、日本人アソシエートエキスパートの手紙として、職員みんなが回し読みしてたよ。」
「今だから言えますが、あの英語は森山さんのネイティブチェックが入っていたんです。」
「なるほど、道理でみんなが引き付けられたわけだ。」
 今その内容についてはっきりとは覚えてないが、それはユネスコが理念を失っていることを指摘したものだった。

ユネスコの真珠

 30年も昔の記憶がよみがえってきた。僕が、図書著作権部に異動したとき、そこには南欧人の独身の女性局長(D1)と、南米人男性の専門職(P4)がいたが、二人は同棲していた。飲み会のたびに、二人はギターを弾いて楽しそうに歌っていた。このコロンビア人は、ある日、ひとつ上の部長職(P5)についていた。

 僕はこの男性と半年以上いっしょの職場にいたけど、仕事の話をした記憶はない。彼を採用したのは、アメリカ人の独身女性(前の図書著作権局長)だった。本に関係した仕事をしていたわけではなかったこのコロンビア人は、彼女に取り入ってユネスコに入ったのだった。そして同じようにして、次のポストも手に入れたわけだ。

 このあたりの話はイギリス人のベテラン事務職員の女性から、ランチのときに地下の社員食堂で教えてもらった。

「図書部は、かつてはユネスコの真珠と呼ばれるほど、大切な部局だったの。本こそが、人類に深い知恵を授け、文明を前進させる力をもつという明快な哲学が生きていたのよ。でもね、前の局長は、探偵小説しか読んでいなかったのに、本を読むことが大切だと、みんなの前で講演していたわ」

 彼女は、大江健三郎がノーベル文学賞をもらったとき、「なぜ遠藤ではないの。大江なんて知らない」と僕に真剣に訴えてきた。無類の本好きで、文学少女だった。

 僕が、ユネスコに残るべきか、ロンドンで宇宙専門商社に戻るかを迷っていたとき、相談することができたのは、この事務職の女性だけだった。そして彼女は、僕がロンドンを選んだとき、僕の選択に賛成してくれ、背中を押してくれた。彼女にとって、僕が唯一本のことを話せる相手だったのに、去ることを勧めてくれたのは、外の世界でもっといろいろなことを勉強してきなさいという期待と励ましだったと思う。

 当時のユネスコで流行っていたジョークがある。「ユネスコでは何人が仕事をしているのですか?」と質問されたマヨール事務局長が、それに答えて、「だいたい三分の一です。」

 

負の世界遺産「原爆ドーム」

 もうひとつ思い出したことがある。

 ユネスコ世界遺産条約は、1972年のユネスコ総会で締結されたが、日本政府がそれを批准したのは1992年。20年間の空白期間のために、当時の日本人はこの条約のことを知らなかった。日本で最初に登録されたのは、自然遺産が白神山地、文化遺産が姫路城で、超メジャーな遺産という気がしなかった。日本政府は様子見していたのだろう。

 その年、広島から市民映画祭の受賞作品を上映するためにユネスコ協会連盟の人たちがパリにきていた。受賞作品が、原爆と無縁な、介護問題だったので、映画をみて僕は肩すかしにあった気分になった。それでユネスコ本館7階の社員食堂で一緒にお昼ご飯を食べているとき、「原爆ドームは、今、どうなっているのですか。」と協会連盟の人に質問した。
「あれはそのうち朽ちてなくなります。」
そう聞いて、僕は
「それじゃあダメです。世界遺産に登録しましょう。アウシュビッツがすでに負の世界遺産として登録されています。」
と思わず分不相応な提案を口にしていた。

 広島ユネスコ協会の人たちが帰国したあと、日本ユネスコ協会連盟による全国的な署名運動が始まった。当時アメリカはユネスコを離脱していたので、直接アメリカが横やりを入れることはなかった。だがアメリカの顔色を気にする日本の官僚たちは青ざめたことだろう。日本政府はこの登録に協力的ではなかったが、原爆ドームは1996年に世界人類の文化遺産として保護されることが決まった。


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