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高校教育の現状と学習


 最近、少し文章から遠ざかってしまっているため繋ぎとして、昔に書いたことを読み返しがてら載せていきたいと思う。

 現在、“高校”への進学に進学するというのは、ごく当たりまえとして根付いている。文科省の「高等学校教育の現状」調査では、高等学校への進学率は昭和49年で90%に達している。これは、この調査が行われた平成26年度においても同じである。残りの8%は通信制・定時制高校のパーセントを足すことで、現在の日本の“高校全入”時代と言われる所以に繋がる。

 ここで私自身の研究テーマでもある「なぜ一条校であるはずの通信制や定時制が、全日制高校と分けられて集計されてしまうのか」という慣例的な差別に対する問題を見ていきたいと考えた。そして、「なぜ通信制の生徒は全日制高校に戻れないのか」という内容も語りたいが、ここではテーマである学習や学び合いを、高校教育と結び付けながら考えたい。また、課題や自分の意見を短いながらまとめていく。


 日本の教育は、競争的な、優れた者たちへのものとして進んでいってしまっている。エリートとされる人々や文化資本の高い親を持ちながら、よりよい教育機会に恵まれた者のためのグローバル教育というのが教育の主流となっている。このような、特定の人々だけが“幸せ”になれるような教育というものは、見て肌で感じると気持ちのよいものではない。

 このような背景があると現代の学習は


「経験や練習の結果から生じた行動の変化」(渡辺2011)


というよりも、「結果や他者を追い越すために用いられる行動の一種」であると考えられる。学習は、「学び合い」が重要とするのではないか。また、佐伯(1995)の文化的実践としての学習が取り上げられていた。佐伯氏の文化的実践についてここで述べるとはしないが、学び合いという「できる子ができない子へとサポートし、授業はみんなで作り上げていく」といったイメージは、高等学校の今後の進路を考える難しい。受験という、自分自身のライフコースを強制的に決めざるを得ない時期に当てはめることは至難の業である。できないやつはできないなりに、できるやつはできるところへ、そして、できないやつを助けるぐらいなら「塾や予備校」に行くということになり、高等学校の存在意義が消えてしまう。


 このような背景が付きまとう高等学校の現状で、本来の学習の概念を適用させ、打開の策として講じられる“真の教育方法”は通用できないどころか、スティグマを張られて隅に追いやられてしまう。

 学習というものも、学校と同じように教育全体を統括しているもの、つまり、国家や社会からの影響を多大に受ける。もし、国家からの競争的な意味をふんだんに含んだ学習感を変えることができるのだとしたら、それは教育全体を変えていることと同義として考えることができてしまい、途方もないことになってしまう。

 
 しかし、今まで考えられなかったわけではない。それが、学習社会や生涯学習社会の構築がその一例となる。生涯学習社会とは

 「社会のさまざまな教育・学習システムが相互に連携を強化して、生涯のいつでも自由に学習機会を選択して学ぶことができ、その成果を評価するような社会(中央教育審議会1991)

と引用されることが多い。

 この概念には、学習を考える上でも、教育を変えることができる考えにも参考になる。このような考えが出てきた背景には、学歴社会に対するアンチテーゼである。学習が、競争的である所以もここだといえる。変えようとはしてきたが、長く培われてしまった考えはなかなか変えることができない、ということを教育が自ら教えていくことになるのが皮肉なものである。

 以上のように、高等教育学校の現状と学習には課題が多く、教育そのものに対する問題が関わってくる。何かを学ぶ上で、興味関心が重視され、適正に評価されたとしても、自身のライフコースに関わることになれば、従来通りの学習に囚われることになる。今の私には、“学習”のよりよい姿に対する考えが及ばないが、一つ言えることは、学習が「迷い」のツールになることは避けなければならないということである。


―引用・参考―
 文部科学省「学校基本調査」2014年
 平原春好 寺崎正男編 「新版 教育小事典」 学陽書房 2011年 pp32-33
 佐伯胖 「シリーズ学びと文化①学びへの誘い」東京大学出版会 1995年 p1-pp48
 浅井経子編著 「生涯学習概論―生涯学習社会への道―」 理想社 2010年 pp50-51

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