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イエスは「教会」には留まらない。むしろ、そこに行くのをためらう人のそばに ~若松英輔『イエス伝』

 若松英輔さんの著書『イエス伝』(中央公論新社)を、興味深く読んでいます。
 批評家であり、カトリック教会で幼児洗礼を受けたクリスチャンでもあり、一時は真剣に神学校に入ろうと考えたこともあるという著者が、イエス・キリストを論じた評伝です。

 第一章の最後にあった文章に、共感を覚えました。著者が、自身の信仰歴を語っている部分です。

だが、あるときから自然と、「教会」から足が遠ざかるようになった。だが、それがイエス・キリストに背を向けたことになるとも思えないのである。私のイエスは、「教会」には留まらない。むしろ、そこに行くことをためらう人のそばに寄り添っている。福音書に描かれているイエスは、神殿で人々を待ったのではない。彼のほうから人々のいるところへ出向いていくのである。
(若松英輔『イエス伝』より)

 私が信じているイエスさまも、そういう人物です。
 神殿で人々を待つのではなく、自ら出向いていって、「教会」に行くことをためらっている人や、ひとりぼっちでいる人のそばにこそ、寄り添っている。
 そういうイエス・キリストを、私も語り継いでいきたいという気持ちになりました。

 また、教会に「」がついているところにも、著者のお気持ちを思い量ってしまうものが。
 本来の教会と、「」のつく「教会」と。その意味するところの違いは……と考えてしまいます。

 私はプロテスタントのクリスチャンなので、もともと、教会とは建物ではなく、イエス・キリストを信じる人の集まりのこと、という認識を持っています。が、現実には、そこに所属するために必要な義務や規則、「こうしなければならない」と求められることなどが、信仰の本質から離れているのではないかと感じることもあるのです。
 もちろん、日本全国にいろいろな教会がありますから、一概には言えません。

 インターネットの普及をはじめ、テクノロジーは進歩して、時代は変化しています。変えたほうがいいことと、変えずに守り続けたほうがいいこと。その選択が大切なタイミングにいま、きているのかなあ、と思います。
 とはいえ、ひとりのクリスチャンである私ができることといえば、思考停止をせず、日々の暮らしのなかで、いまを生きる信仰を抱いて生きていくこと。そして、それを発信すること、ですね。

 そんなことを考えながら、本書の先を読み進めていきたいと思います。


◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、devaagni2000さんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

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