見出し画像

「歴史を学ぶと、未来がわかる」という、言説がいまいち腑に落ちない理由と、東浩紀の思想。

 与えられるファストフード化された消費財を動物みたいに食べる人間像──。それを『動物化』と表現したのは、思想家・東浩紀である。

 漠然とした言い方になってしまうが、私は自分自身が社会とつながることに興味がある。私は平野啓一郎『私とは何か』が好きだが、これも同様の問題意識に駆動されて手に取った本である。

 さて東浩紀『動物化するポストモダン』も、そのような「社会とどうつながるか」という問題意識の通底した書物だ。2001年に発行された書籍であり、20年ほど古いものである。しかし、人文系の思想書はその批評の射程は失われていないと考えるため、今回取り扱う。

 日本の物語を消費する構造は1960年から1970年ごろにかけて致命的に変わってしまった。その変わってしまった理由について言語化した本である点に東浩紀の新規性がある。

 タイトルのポストモダンとは、文字どおり「近代の後にくるもの」を意味する。1960年代から1970年代以降の文化的世界を広く捉えるために、現代思想や文化研究の分野でしばしば使われる分野である。

 東の言葉を借りれば「1960年代から1970年代に、日本、ヨーロッパ、アメリカなどの行動資本主義では「文化とは何か」を規定する根本的な条件が変容し、それにしたがって多くのジャンルが変貌した。従って、現在の文化状況を、50年前、100年前の延長線上に安直に位置付けることはできない」と述べられる。

 東はこう続ける「例えば、ミステリやファンタジーに支配されたエンターテイメント小説の現状を、日本近代文学の延長上で理解しようとしても絶対に無理が来る。そのような断絶の存在は、専門家に限らず、多少とも真面目に現代の文化に触れようとしている人ならば、誰でも感覚的に理解できることだと思う。現代思想や文化研究の分野では、そのような常識的な直感をポストモダンと呼んでいるだけの話だ。」

  では、ポストモダン以前の物語はどのようなものであったのか?

 東はフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの「大きな物語の凋落」という概念を紹介する。18世紀から20世紀半ばまで、近代国家では成員を一つにまとめ上げるためのさまざまなシステムが整備され、その働きを前提とした社会が運営されてきた。
 そのシステムは例えば、思想的には人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位として現れてきた。「大きな物語」とはそれらのシステムの総称である。

 近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、石油ショックと連合赤軍児事件を経た70年代に加速した。

 少し脱線するなら、歴史の古代・中世・近代・現代という区分や「縄文時代」と「弥生時代」という時代を分類する区分も、以前の延長線上で理解できない時代に変貌した。その「断絶」ゆえに異なる名前が付けられていし、その歴史的な経緯と同様に、「ポストモダン」も存在する。

 同時に、この「断絶」というキーワードから、「歴史を学ぶと、未来がわかる」という安直な言説が、なぜ僕らにとって腑に落ちないことがあるのかということが、理解できる。

 「歴史を学ぶと、未来がわかる」とは、なぜ歴史を勉強するのかと問われたときに、答えとして返ってきた経験がある人もいるだろう。(批評家の岡田斗司夫が1995年に著した『僕たちの洗脳社会』にて高さについて述べているが)。それは縄文時代の勉強をしていても、東の言葉を使うならば「断絶」があるために、現代をいきる我々には、活かしようがないという困難だ。

 逆にユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』にて古代農耕社会と現代の我々の社会をつなげて構想した。
 ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』ではルネッサンス以降のヨーロッパの発展を、地政学的に説明した。

 すなわち、我々は現代の現象を説明するのに、せいぜい20-30年の射程で歴史を捉える (コンピュータ登場以降と、現代をシームレスに繋げて論じる論者は少ない。コンピュータ以前、以降。ポストモダン以前、以降で分けて論じるなどが主流だ) のに対し、ハラリやジャレド・ダイアモンドは1000年以上の時間と空間を超えた構想力を発揮し、しかもそれを小説ではなく、歴史的史実に基づいた「現実」のストーリーとして、歴史学者の反証にも耐えうる形で、ビジョンを打ち出したところに新規性が存在する。

 我々は、地図を使うことで未知の場所でも道に迷わずに歩ける現代社会を生きる時も同様だ。社会学や哲学は、「今の社会」に地図を与えてくれる。本書は、その地図としての精度が高く、非常にはっきりしたビジョンを示す本だ。

 そもそも人文系の学問を行う我々が行っているのは、そのような「高校生のときは一見無秩序で意味不明な場所に感じた社会の、地図を作る営み」だ。

 そして一歩進んで、「こんな地図を作ろう」と聴き手をワクワクさせるグランドデザインを語れるーすなわち地形を作り替えられるー天地創造のグランドデザインの構想を作り上げられるのが思想家という存在だ。
 
 これをビジネスのスケールで構想するのが起業家や実業家であり、「世界を書き換える構想力」の莫大な創造力を発揮したのがスティーブ・ジョブズや孫正義である。そのため彼らはあそこまでビックネームとして『フォーブズ』などで「世界を変えた起業家などテーマで筆頭に取り上げられ続けた。

 そして、その地図は吉見俊輔や柄谷行人など、先人たちが脈々と世界の思想を取り入れたり、日本の文化に当てはまてアレンジしたりしてきたが、絶対の「正解」はない。

 「過去を振り返ると、世界の見え方が一変する」と喝破したユヴァル・ノア・ハラリやジャレド・ダイヤモンド。「世界はこのように作っていきたい」とビジョンを出した宮台真司など、先達の歩んだ轍を踏みしめながら、「自分の目から世界はこのように見える」「そして、もしこのような社会になったら生きやすく感じる人は自分以外にもいるだろう」と行動するのが人文系の学問だと、私は捉えている。


 逆にいうと、YouTuberの「丁寧な生活」ブログとかは、学問的な裏付けはないし、社会をマクロに捉えることはなく、自分の部屋という射程に収まっている。
 しかし、「今のオシャレはこのようになっていて」「今のファッションや自分の部屋はこれほどまでに醜い」「だからこのように、北欧の日本にはないような解釈で、日本風に使いやすくしたい」としてビジョンを内包している点では構造的に同値である。
 例えばフリーター兄弟が5年で上場し、Newspicksにて取り上げられた「北欧暮らしの雑貨店」は、そのようなビジョンで作られた雑貨店である。

2022/05/27



 

この記事が参加している募集

#多様性を考える

27,976件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?