ベビーカーに差しかけられた傘
まだまだ残暑が厳しい8月下旬のある日。お昼を食べに、家族で深川資料館通りの『のみくい処きくちゃん』に出かけた。
いかにも地元民に愛されている居酒屋、という風情ある佇まいだが、土曜日限定で出しているランチのラーメンが、べらぼうにおいしいのである。
売り切れ次第終了なので、この日も急ぎ足で現地に向かうと、15分ほど待って中に入ることができた。
店内は邪魔になるので、ベビーカーは畳んで軒先に置かせていただくことにした。
無事到着したラーメンを親子3人でにぎにぎと食べ進めていると、どうやら外は土砂降りの雨が降っているらしい。
そういえば、列に並んでいる途中から暗雲が立ち込めていたのを思い出す。確か今日は終日曇りの予報だったが、最近は東南アジアのスコールのような天気も珍しくない。
外に置いたベビーカーのことが一瞬頭によぎりつつも、ちょうど屋根の下あたりに置かせてもらっていたで、まぁ大丈夫だろうと家族でのランチを楽しんでいた。
すっかりどんぶりも空になり、みんな満たされたところでお会計を済ませた。
子どもの支度などを夫に任せ、先にベビーカーを広げておこうと扉をガラっと開けると、なんとベビーカーに傘が差しかけられていた。
実は半分屋根の外に出ていたのを、女将さんが気づいて対応してくれたようである。
「傘!ありがとうございます!」急いで中に入って私が言うと「濡れちゃうといけないからねぇ」と笑顔を向けてくれた。
普通のことだよ、と言わんばかりの善意の行動に感動しつつも、予報を信じて傘を持ってこなかったことが頭によぎる。
すると、厨房で忙しく働いていたご主人がそれを見越したかのように「傘は持ってる?」と聞いてくれた。
「持ってないんです……。」おずおずと答えると「じゃあ持っていきなよ。後で外に置いといてくれればいいからさ。」と。なんたるご厚意!
実は、きくちゃんの近くにお気に入りのカフェがあるので、雨が止むまでそこで雨宿りしようと思っていた。小走りなら1、2分だから大丈夫だと踏んでいたが、道中子供が濡れないように、滑って転んで子供を落とさないように、ありがたく傘を拝借することにした。
立て続けのご厚意に胸がいっぱいになりながら、無事『BEE FRIENDSHIP 』に到着。主に愛媛県産の蜂蜜を取り扱うお店だが、ジェラートとコーヒーもおいしいので、よく家族3人で休憩に訪れる。
実は傘は子供を抱っこする夫に託し、私は結構本降りの中、小走りでベビーカーを押してきたので濡れ鼠状態であった。
そんな様子を見て、店員さんが「急に降りましたね。大丈夫でしたか」と心配してくれた。
それだけでも嬉しかったのに、私がアイスコーヒーを頼むと「氷少なめにしましょうか」とおっしゃってくれた。
多分濡れた私が寒かろうと配慮をしてくれたのだろう。まだまだ夏真っ盛りだったので、雨に濡れても特段問題はなかったが、その厚意がまた嬉しかった。
ジェラートとコーヒーで人心地ついた頃、ちょうど雨も上がっていたので、きくちゃんに傘を返しに行った。
外の傘立てに立ててから、引き戸を開けてオーナー夫妻に「傘ありがとうございました。無事に止みました」と声をかけたら「わざわざありがとう〜」と爽やかな返事が返ってきたので思わず笑顔になって扉を閉めた。
雨上がりの道を家族3人で帰りながら、夫に「いい地域だね!」と、今日の話を何度も何度もしていると、同意しながら「エッセイに書きなよ」と言ってくれた。
そして遅ればせながら、やっとこの温めていたエピソードをかけた。
文章を書くのは好きだけど、日々、子育てや家事、やるべきことを優先していると、あっという間に時間が過ぎていき、いつのまにか9月も下旬になっていた。
日々できることや言えることが増えて、でもまだ甘えん坊で、ときどき癇癪も起こして。
そんな12キロのわんぱくと毎日対峙していると、可愛いけれど、夕方には体力も限界。
子供が寝た後は自分もくたくたで、すぐに寝てしまうと言う日々。
毎日必死なのに、ふと立ち止まった時に「何も特別なことが起きない、同じような日の繰り返しだな、進んでいるのかな」と落ち込むこともある。
でも、この体験を書き起こしてみて「あぁ、何も起きていないなんてことはない。こんな素晴らしい経験をしていた」と思い出した。
同時に「私はやっぱり文章を書くのが好きなんだ」と強く感じる。
他の人にエピソードを共有できるのはもちろん嬉しいし、何より書くということが、とても楽しいのである。
当時1歳7ヶ月の息子は、この時何があったか分かっていなかっただろうし、多分覚えていないだろう。でも数年後、彼が理解できる年齢になったら、絶対この話をしたいと思う。
そのもっと先、長い文章が読めるようになったらこのエッセイも読んでほしいな、と密かに楽しみに待っている。
そして今回、この話を思い出してしみじみ思ったこと。
子どもにどんなことを経験させてあげたいか、どんな教育を受けさせてあげたいか。
選択肢の多い現代、子どもが1歳や2歳のうちから悩む人がたくさんいると思う。わが家も少なからずその一員である。
英語が重要なのか、はたまた理系科目が重要なのか。自然の中で育ってほしいけれど、教育が充実している都心部にいた方がいいのか。正解のない問いに悩みは尽きない。
でも、ぐるぐると悩みつつも、1つだけ夫婦で共通して持っている子育ての信念がある。
それは「優しさと思いやりがある人、そして人の痛みを分かる人になってほしい」ということ。
今はまだ純粋で、毎日新しいことに出会って目をキラキラさせながらすくすくと育っているわが子を見ると、本当にもうそれだけ持っていてくれれば、十分な気がするのである。
彼にはこれから先、いろんなことが待ち受けているだろう。でもこの日、私たちがきくちゃんやBEE FRIENDSHIP SHIPでもらったような声がかけられる人になれば、きっと人に恵まれる。だから大丈夫なんじゃないかと思う。
本当に最後の最後に、本題とは逸れるけど大事なお話、きくちゃんのラーメンについて。メニューに並ぶのは正油、味噌、辛味……いたって普通のメンツ。
到着したどんぶりの見た目も、チャーシュー(でも食べ応えありの結構豪華なやつ)に海苔に、太めの中華麺、といわゆる素朴なラーメンなのだが味のバランスが絶妙で、食べるごとに
「あぁ、もうひと口食べたい」と夢中で箸が進んでいくのである。
濃すぎず脂っこくなく、水が欲しくならない。丁寧に作っているんだなぁと分かる。そして何より店主の人柄が最高に素敵なので、また絶対行こうと思うのである。
ちなみにおすすめは、しょうが正油。
BEE FRIENDSHIP のはちみつも、ゆずや栗、さくらなど国産ならではのラインナップ。それぞれ特徴はあるけれど、どれも上品な味わい。わが家ではおもたせの定番です。
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