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看取り~介護と死別を通して得られた家族の絆とは~(1)

昭和52年(1977年)5月31日(火)

僕は、小学校三年生。お父さんとお母さんと三人暮らしだ。小学校三年生の春の遠足から帰ってくると、母は自宅のアパートで寝ていた。風邪を引いたのかな、と思ったら、お母さんはシンフゼン(心不全)と言っていた。シンフゼンって何かわからなかったが、ちょっと重い風邪かな、と思っっていた。それ以来お母さんは仕事を休んで自宅で寝ていた。早く治ればいいな、と思ったが、あまり深刻には考えていなかった。
当日、授業が終わって帰ってくる途中で上級生にからまれ、何発か殴られて泣きながら自宅についた。そのままアパートの自室のドアを開けようとしたが、そこでハッと気付いた。このまま部屋に入るとお母さんが心配してしまう。それで玄関の前で泣き止むまで待って、涙をふいてから部屋に入った。
しかしすすり泣く声が聞こえてしまったのかもしれない。お母さんは心配そうに、「どうしたの?」と聞いてきた。僕は平然を装って、「何でもないよ」と答えた。すると母が、「哲也、おなかすいてない?」と聞いてきた。給食を食べて帰ってきたので、おなかはすいていなかったから、なんでそんなこと聞いてくるのかな、と思い、「すいてないよ」と答えた。お母さんはそれでも、「いいから、いいから、作ってあげる」と言って台所に向かっていった。
お母さんはチャーハンを作ってくれた。僕はそのチャーハンを食べたが、何か不思議な気がしていた。お母さんは僕に、「おいしい?」と聞いてきたので、「うん、おいしい」と答えた。
食べ終わると、お母さんは片付けが終わると、また横になった。

しばらくするとお母さんは急に激しいひきつけを起こした。僕はびっくりして何もできなかった。その頃ちょうどお父さんが戻ってきて、びっくりして救急車を呼んだ。
お母さんが正気を取り戻したころ、救急車が到着した。お母さんは搬送を嫌がって、うちにいたいといったが、救急隊やお父さんの説得に応じて、病院にいくことに納得した。お母さんは自力で歩いて救急車まで歩いて行った。
病院選定が終わり、救急車はT病院に向かった。僕は初めて救急車に乗ってはしゃいでいた。まして父と母と一緒に出かけることができて家族旅行をしている気になっていた。

病院に着く頃、お母さんはまた調子を崩してきた。医師がAEDを使って治療を施した。子供は別室に、と看護師が僕を病室から一時的に外へ出した。
調子を一時的に戻して、部屋への入室を許されて、お母さんのベッドサイドに行くと、「哲也、哲也・・・」とひたすら僕の名を連呼していた。僕はそばにいるのにどうしたのかな、と思った。そのうち僕は眠くなり、病室の外のソファーで寝てしまった。明日は三人でうちに帰れるかな、と思っていた。

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