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事実は小説より奇なり、しかしやっぱり小説には事実にはしたくないことが散りばめられる。

ドラマ『何曜日に生まれたの』にハマっている。
もともと映画やドラマを見るのは好きだ。
ただ、幼い頃は、母親があまりドラマを見ない人だったうえに、子供のわたしに見せたくないテレビ番組を排除していた。ゆえに、ドラマを見る機会にあまり恵まれなかった。
人気刑事ドラマ『太陽にほえろ』もあまり見せてもらえなかったし、『金八先生』も見たことがない。
その代わり、子供が主人公で見るには無難な『あばれはっちゃく』や『カレー屋ケンちゃん』は見ていた記憶がなんとなく残っている。
昭和の古いドラマの話なので、御存知ない方は申し訳ないけれどグーグル先生に聞いてほしい。

高校生の頃に大流行してみんなが見ていたといっても過言ではない『東京ラブスト―リー』も、わたしはリアルタイムでは見ていない。
だいたい、ドラマを見ているとすぐ隣で母親が絶対ディスってくるのだ。物語の設定にケチをつけたり、ドラマのキャラクターの台詞や性格をけなしたり。

大学生になった頃からだろうか、夜九時台のドラマをようやく普通に目にするようになった。母親もドラマに対して何も言わなくなった。
といっても、だからといって貪るように見たわけではなく、飲み会で帰宅が遅くなったり当時の彼氏と遊んだりもしていたので、たまたま家にいる時にご縁があったドラマのみ。
今とは違って、テレビに番組表が表示されたり検索が簡単にできる時代ではない。
新聞のテレビ欄を見て興味を持ったもの、テレビをつけた時たまたま目にしたものが面白ければ、来週以降も続けて見ようという程度だった。

その頃、別所哲也さんに恋をして、彼の出演作はチェックするようになった。ただし、彼の作品はテレビドラマよりも映画や舞台の記憶の方が多強い。

社会人になってからは、それはそれで定時退社して毎日決まった時間に家にいるわけではないし、週末はやはり友達や当時の彼氏と遊んでいたので、言う程ドラマを観てはいない。
そして、別所さんの次にヒュー・グラントにハマった時期で、休みで家にいられる時は、もっぱらビデオレンタルで漁った彼の出演映画を片っ端から観ていた。

その後も、毎週決まった曜日に家にいるような生活をほとんどしていなかった。
江口洋介さんによる『ひとつ屋根の下』の何とか兄ちゃんもよく知らないし、キムタク主演の数々のドラマもほぼ観ていない。
たまにご縁があって面白いと思った作品を毎週録画して見ることもあったけれど、限られたわたしのテレビ時間はだんだんとお笑いに支配されていった。
その頃のわたしはきっと、ただ腹を抱えて無邪気に笑う時間を欲したのだと思う。


しかし、大好きだったお笑い番組は次々と終焉を迎えて消え去った。

そして、番組表や番宣で気になったドラマを録画で観る暮らしとなった。
もはや、リアルタイムではほぼ見ない。
放送時間に拘束されるのが無理だし、時間ももったいないので、録画を倍速で再生して視聴、CMは飛ばすのが基本だ。


近年で、次回が楽しみで楽しみで堪らず絶対にリアタイしていたのは、大河ドラマ『麒麟がくる』『鎌倉殿の十三人』。

ドラマを観るのが好きだ、と書きだしたわりに、実は本当にたいして観ていないじゃないか、と今思っている始末。
でも、映像作品を観るのが好きなのは本当なのだ。




そんなわたしが何気なく見始めて現在どハマリしているのが、『何曜日に生まれたの』である。
テーマソングが今流行りの楽曲はない洋楽で、ちょっと薄暗い世界観。
途中から野島作品だと知って納得した。

ドラマ遍歴自体がこんな感じなので、野島作品も知り尽くしてはいないけれど、学生時代に見た『高校教師』と『聖者の行進』は何ともショッキングだった。
当時どんなドラマ作品を観ていたかと問われたら、タイトルや演者さん、おおまかなストーリーをすぐに思いだせるのはこの二つしかない。鮮烈なシーンの数々まではっきりと思い起こせる。

余談だけど、あんちゃんが出てくる『ひとつ屋根の下』も野島作品なのね。今ググっていてたまたま知った、苦笑。

この『何曜日に生まれたの』は、毎回毎回、『こういう展開なんだろうな』『こういう裏話があるんだろうな』というわたしの予想を確実に裏切ってくる。
『あ、そっちなのか!』『そうきたか!』の連続で、登場人物やストーリーの秘密の暴露を匂わせたところで続きは次回、と焦らされて、秘密の核心にせまる展開のチラ見せ予告がわたしの心を鷲掴みにしたまま。次回も絶対追わずにはいられないのだ。


そんなこのドラマも終盤を迎え、超人気ラノベ作家公文竜炎くもんりゅうえんこと三島公平の過去が明かされつつある。

以下はネタバレだが、三島浩平には妹のつぼみがいる。
公平が中学生の時に父が他界。
その後、母親は再婚。
公平は高校の寮に入ってしまい、まだ小学生の蕾は母親と再婚相手が暮らす家に残された。公平の知らないうちに彼女は不登校となっていた。
そして、高校を卒業した後の公平が虫に知らされたように実家を訪れたある日、彼女は自らの手で両親を包丁で刺し実家は血の海に。二人とも一命はとりとめたものの、蕾は自傷行為を繰り返すようになり、今は精神病院で過ごしている。
何故彼女が両親を刺すに至ったのかは明かされていないが、公平は幼い妹だけをその家に残した自責の念にかられる。
その一方で、彼女をモデルに小説を書き始める。それが、大ヒット作となり今に至る………という話で今週の回は幕を下ろしている。


それまでのわたしは、登場人物たちの高校時代の青春回想シーンで胸キュンしたり、その裏に含まれている高校生の彼らの人としての青く生々しい欲や情が十年後の現在いまとなって露呈される展開に衝撃を受けたり、そしてお互いに救われたり許し合ったりしているのを見ながら、
『仲間ってえぇのお……こういう青春時代と仲間達がわたしも欲しかったにゃあ……』
と感銘の溜息を漏らすアラフィフと化していた。


それが、ここにきて描かれたこの殺人未遂事件と少女の心の傷に、どこか『やっぱりこうなってしまうか』と、ある意味予想どおりという心境に陥ってしまった。

設定に激しくがっかりしたわけじゃない。
けれど、ここにきて明かされた公文竜炎という正体不明の大人気ラノベ作家の過去!というものが、やはりそういった現実社会では起こってほしくはない、でも実はいつどこで起こっていてもおかしくはない、いや起こっているといってもいい残忍な事件要素を取り入れたものでなければ、物語は面白い作品として成立しないものなのか、と。
そういう意味では、予想外の衝撃の秘密!という感覚にならず、『結局はそういう設定を持ちだすことになるのか……』と、ちょっと期待外れのような微妙な心境に陥った。




自分が五十年近くも生きてしまって、色々な処で色々と見てきたせいだろうか。
実際、「事実は小説より奇なり」という言葉は真実で、良くも悪くも作り話かよ?というくらい奇妙な出来事が実生活で起こるものだ。
凪のように穏やかで優しい人生の人もいるかもしれないけれど、望まぬ所で運命の歯車が急に狂って、あれよあれよという間に自分でもどうしてこうなってしまったのかわからないというステージに立ってしまう人もいる。

だからなのだろう。
いつの頃からか、ドラマなどの創作で、あえてジェットコースターのような展開や残忍な事柄をテーマにしたものを目にしたいとは思わなくなった。
もう、自分の実生活や、この世の出来事として起っている事象だけでお腹いっぱいで、わざわざプロの創作物でそういうものを見たいとは思えないのだ。
特に、人を殺めるとか犯罪行為とか、誰かの心が死を願ったり死ぬことしか選択できないほど深く傷つくとか。

ただ、一方で、そういう要素や描写があってこそドラマ(創作)が成立する。
何事もない、ひたすら平穏で幸せな物語(創作)もあるにはある。でもそればかりでは飽きてしまい刺激を欲してしまうのが、知能と想像力を持ってしまった人間という生き物なのだろう。

現実には自分に身の上に降ってきてはほしくないが、作り話とわかっているからこそ、視聴者・受け手は安心してその世界に没頭でき、感銘を受けて、鮮烈な後味を愉しめる。
客観的にただ観るのか、あるいは自分だったら……と適度にスリルを楽しむなり物語のキャラと共に悩むなりして、刺激を受けて満足する。
体感できない、したくはないことを疑似体験するためにあるのがドラマ(創作)なのだ。

だから、現実では起こりえない、あるいは起こってほしくはない事象を衝撃的な秘密のスパイスとして取り込むというのは王道だと言えよう。


自ら胸を抉るような思いをしてそこまで書かないと、プロの創作者とはなりえないのかもしれない。
と、わかっていはいるものの、自分にはそういうものは書けないだろうなあと思う。ほんにゃりほにゃららと見るだけで幸せになるような作品ばっかり創れたらいいのにな、と思う。

でも、わたしの書いたものは、もちろん野島先生になんて到底及ぶはずもないけれど、読んでくださった方から薄暗いとか切ないとか、悲しくて泣いてしまったと感想までもらったことがある。
生きてきて色々見てしまったゆえに、書いたものにどうしてもそういう片鱗が滲み出てしまうのか。

でも、やっぱり、読んだら幸せになるよね、と思える文字もさらさらと綴れる人になりたい。
そのためには、まず、自分自身が穏やかに生きてシアワセにならないといけないんじゃないかと思う。そんな空気を纏わければ、きっと心温まるものは書けない気がしている。

理想は、映画だけどいつか『間宮兄弟』みたいな世界観の創作をしたい。





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