2023にできるようになったこと・今自分が「存在する」ことへの感謝
『何気ない日常に感謝の気持ちを持つ』
人の世の中において、何となくこれが自然とできるようになったわたしのマインド。
実は、さらにステージが上がったと自分で思える部分がある。
それは、もっと世界をひろげて、地球上の一生物として感謝できるようになったということ。
なんのこっちゃ大袈裟な、と思われるかもしれないけれど、自分でもうまく書けないかもしれないけれど、ご一読いだたければ至極幸いです。
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毎朝、ベランダから目の前に見える樹に鳥たちがやって来る。
時には朝の空を見上げながら、時には洗濯物を干しながら、その鳥たちの様子を少し眺める。
以前は、わたしの気配を感じると、すぐさま止まり木から一斉に飛び立ってしまうことが多かった彼ら。
最近は、わたしが気配を消すのが上手くなった……かどうかわからないけど、鳥たちは逃げることなく、枝から枝へと遊んだり、梢の隙間で木の実をつつく姿を見せてくれる。
ある時、ふと鳥の鳴き声を耳にして、『 あれは鳥にとって意味があるんだよな 』と今更ながら感じ入った。
一羽の鳥がけたたましく鳴くと、それを聞きつけたように、他の鳥たちが彼方からやって来ることがよくある。そして、遠方組が樹に到着すると、まるで会話をするように鳴き声を交わし合う。
そういえば、以前テレビで、確かジュウシマツだったか、特定の種類の鳥の鳴き声を分析して、どんなサインを発しているのか研究している人を見かけた。
人間には理解できないだけで、どんな生き物も、発する声、音には意味や理由があるはずだ。
そこからちょっと壮大に転じすぎではあるけれど、数えきれない地球上のどんな生物も、彼らなりの性質を携え、彼らなりの活動、棲家、命のサイクルがあることに思いを馳せるようになっていった。
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どの生命も、宇宙という未解明のよくわからない空間に浮かぶ地球という星の上で、遺伝子、さらには原子レベルまで、色々なエネルギーが組み合わさった結果産まれてきた存在。
命にとどまらず、水も、空気も、生命が生き延びるのに適した温度も、根づくことのできる土も。
人間という、たまたま知能が発達しすぎた生き物だけが、自然や他の生き物を自分達の好き勝手、都合のいいようにいじくりまわしている。
他の生き物達は、基本的にはあるがままで、命尽きるまでそれをただただ全うしてゆく。
自然界にも弱肉強食がある。
動物の肉を一切食べるな、と主張するつもりはない。
けれど、人間だって、同じ地球上のひとつの種類の生き物にすぎない自覚をもっと持つべきじゃないのか?
自然の摂理に人間が手を出すことは必要最低限にとどめ、自然の恵みや他の生命を糧とする時にはありがたくいただく、長年生きた結果動物としての機能が不全に陥ったならば寿命を素直に受け入れる、無事に朝がきて夜がくる・月が満ちて欠けるというサイクルが滞りなく繰り返されて日々や季節が過ぎ行くことに感謝する、
………といったことをもっと意識するべきなんじゃないのか?
また、自然の摂理や甚大なエネルギーには抗えないし、そこまで壮大な話ではなくても、何らかの事件・事故にまきこまれてしまうこともある。
それは、どんな善人、行いの良い人でも。
と、こんなことに何となく想いを巡らすうちに、平穏に一日を終えられた時、太陽が当たり前のように昇った時などに、『 有り難い 』気持ちが心に浮かぶようになった。
この漠然とした感謝の想いは、『 伝える相手 』がいた方が、より具体的な感謝の言葉を思い浮かべやすい。
だから、神様仏様だったり天空だったりご先祖様だったりを対象にするのかもしれない。
無限に広がる飽くなき探究心や、地球のマントルまで届くほど深い好奇心があるから、解明されたこと、発明されたものがあるのは確か。
便利なのもありがたいことはありがたい。
ただ、大昔の人間……日本で例えれば文化的には卑弥呼の時代くらいまでだろうか、その頃はもっとシンプルに自然・宇宙の摂理と共存できて、実はそれが人類も地球も一番平和な時代だったんじゃないだろうか。
───── なんて、そういう自分だって、常に美しい思考だけではなかなか生きづらいし、便利なものがあるから楽しいこともあるのも間違いないんだけどね。
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