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noteも含めた最近の変化

いつだってプロフィール難民である。
特に、画像。
身バレは困る。自分の顔は出せない。
それ以上に、自分の容姿が好きじゃない。たいへんに哀しいことに。

SNS攻略法!みたいなものを通りすがりでちらりと読んだら、「プロフ画には顔を出した方がいい」と書いてあった。
わからなくはないけど、そう言われても、なのだ。

ゆえに、必然的に創作した画や、自分で撮ったものも含めて無料で使える写真を使うことになる。
これがまた、なかなかしっくりくるものが見つからない。

去年くらいまで、アイコンメーカーで作ったりしていた。
2018年からそうだった。わたしの旧Twitterアカウントが全盛期の頃だ。


けれど、年齢的になんだかもう、そういう類いの可愛い女子の絵を使うのもどうなの……という気分に段々となってきた。

当たり前だけど、自撮りでも鳥でもお花でも風景でもイラストでも、何でもいいと思うのよ。
自分さえ気にいれば。
それが一番だいじ。


訳あって、最近また変えてみることにした。
自分で撮った鳥の写真がまあまあしっくりキたから、とりあえず鳥でいた。

が。

わたしの場合、SNSのプロフ画はわたしそのものじゃないのに、そのプロフ画のイメージに引っ張られたSNS投稿をしがち。
鳥でいると、何が鳥らしいのかはともかく、自然美を謳いたくなって、さらに人間の名前でいるのに違和感が出てきてしまった。
人間なのに。


なので、「鳥」と名乗ったりしてみた。

「鳥」というお店、ないし部屋の名前っていうイメージでいればいいかな、と考えた。
自分のnoteは、note界隈というひとつの世界における自分の居場所、部屋みたいなものをわたしは理解しているので、その居場所を「鳥」と名付けたつもりでいればいい。
屋号とか店名、そんなイメージ。
マガジンのタイトルも、鳥にちなんだ感じに変更。

ところが、だんだんと「やっぱり人間だもの」と鳥でいるのも微妙な感情を抱くように。

鳥のプロフ画で写真ばっかり投稿したら、それはそれできっと形になる。
鳥になってあちこちに撮影に飛んでますとか、心安らぐ写真を皆様にお届けしたいです、とかプロフに書けば、それなりにそれっぽくなるのだろう。

けど、魂が「それも違うから」と訴えてくる。
写真は撮りたい、もっと上手くなりたい、レンズと編集ソフトが欲しい、
そして、見てもらえたらすごくすごく嬉しい。
でも、わたし、鳥としてそうなりたいんじゃないんだよな、と。
せっかく気にいった人間の名前を考案したのだから、それを名乗っていたいんだよな、と。



名前については、生まれて背負った本名がこのうえなく好きじゃなかった。
名前は親から子への最初のプレゼントだという。
母だけが好きでつけたくてつけた自己満足の塊の名前を、わたしはどうしても気好きになれない。文字も語呂も響きも由来も、何一つ愛せない。
父が持っていた名字も気に入らない。
自分の名前も容姿も好きになれないなんて、相当悪い出オチである。

生まれて持った名字をずっと使いたいと思える人は、幸せなのだ。
わたしは、名字だけでも可能ならば絶対に変えるつもりでいた。
結婚して、もし離婚しても、結婚した相手の名前を名乗り続けようと大昔から決めていた。
離婚するくらいその相手が嫌いだとしても、それ以上に旧姓が好きじゃないのだ。
結婚することになった相手が、また微妙な名字だったらいったいどうしたらよいのだろう、と小学生くらいのころから真剣に悩んだりもした。


で、そんなこんなで今持っている名前は、実は相当インパクトがあるもの。
一度名乗れば百発百中で覚えてもらえるPRの仕方もあるくらい。

一昨日出逢った方に、名前(本名)を名乗って、実は名前は好きじゃないのだと話をしてみた。

すると、その方から名前についてお褒めの言葉をいただいた。

「きっと、その名前になったのは意味があるのよ」

以前から、自分でもちょっとはそう思っていた。
他の方からポジティブに認めていただけて、なんか本名使った方がいい……んだろうなあ……と、漠然と、でもはっきりと感じるようになった。


………ただ。ただし。

本名で検索されると、実はちょっとまずい。

前の職場がバレバレの検索結果が出てくる。

しかも、わたしの名前に見覚えがある人が、いるやもしれない。
例えば、このnote界隈にも。
まったくもって有名な名前じゃないけど、わたしの名前を見たら、楽しくない気分に確実になる人が世の中にいる、その可能性がゼロじゃないのだ。


と、名前名まえなまえナマエ……とうだうだ考えていたら、とりあえず鳥でいるのはもう辞めたい気になって、もともとここで使っている名前オンリーに戻してみた。
今、ここ。


そして、名前を戻すことにしたら、鳥のプロフ画もやめたくなった。
プロフ画としては結構気にいってた方ではあるのに。

本当は、フォトグラファーさんによくある『カメラ構えてる自分の後ろ姿』にものすごく憧れている。
顔も出ないし、それがいい。

それって自分ひとりじゃ撮れない。
撮ってくれる人もいない、ココナラあたりで探せばカメラやってる人が撮ってくれるかもしれないけど、お金払うのもなぁ………。
…………相当リハーサル(?)してタイマー撮影したらいいのだろうか。

そんな感じのフリー素材の画像を探してみたけど、これ!というのが見つからないし、その画像の知らない人をわたしと思われるのもなぁ………という気分。

で、風景写真に変更からの、今は紫陽花になっている。
今、ここ。

季節的には悪くない。月変わりで7月になったらまた変えてもいいか。
と思いながら、もう大好きな京都の京都タワーの写真に変えたくなっているわたしもいる。

そんなことを書いておいて、後日これをお読みくださる方がわたしのプロフ画像をご覧になったら、紫陽花でも京都タワーでもないものに変貌してるかもしれない。
ああ、また彷徨ったんだね……、とご笑覧いただければ幸いです。



そうして色々と、どうしたら本当のわたしが心地よく過ごせるのか思いを巡らせているうちに、SNSアカウントも消してしまっていいか、とふと思いたった。
ここじゃなくて、まったく別のアカウント。
そこは、わたしがある芸術作品について自分の解釈を世の中に伝えたくて作ったもの。
2020年から使っていた。まだ言いたいことは全部伝えきれてないし、わたしと同じ考えを持っている人がどこかで同じことを主張したら、なんだかしぬほど悔しくなる。
だから、自分で主張しようとがんばっていたのに。

ふと、なんかもういいか………と、拘りが浄化されたように主訴したい念が失せてしまった。

しかも、昨日の神社で出逢った言葉がこうだった。

『こだわるな 心空こころくうなり 吹流し』

ああ、もう、こだわらない方がいいのかもしれない。

今、わたしがあんなにも世の中に訴えたかったことを誰かが訴えて、さらに世の中に認知されてその人がその芸術作品解釈の第一人者となっても、傍観できる気がした。

だから、その関係のアカウントを一気に一切さくった。
案外悩むこともためらうこともなく、手が勝手に削除のためのボタンを淡々とタップしていた。
差し支えないのでGoogleアカウントまで消してしまった。



そんな感じで、ここ数日は流されるようにわたしの中の何かが変わり続けている。
本格的な断捨離を始めたら、いろんなものをどんどん捨てたい欲に駆られて、まだ全部捨て切っていないのに、こうして何かを変えたくてたまらなくなっている。

風の時代は、刻一刻と風向きが変わる。
ようやく、少しはそれに乗りつつある兆し、なのかもしれない。

まだまだ片付ききらないので引き続き断捨離を続け、こうしよう、ああしてみようと動いているうちに、どうなるのか少し楽しみ。

色々なものを受信しすぎて鬱々としがちなわたしにしては珍しく、わくわくするような気持ちを久しぶりに味わっている。


とはいえ、SNSの風潮に乗れる気はなかなかしないんだけどね、。




【ハート型の空】












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