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1−1 呆然都市

灰色の街角でぐしゃぐしゃの猫を見て私は悟った。赤って綺麗な色なんだ。

直ぐさま会社に連絡した。「すみません、母が倒れました」聞き分けの良い上司の二つ返事を号砲に画材屋へ走る。開店前の店先に鼠が一匹。少し考えて行き着いた考えはコレ。「私が女に生まれた理由は今この時、ヒールを履いている為だったんだ」鼠の目の前にMacBookを忍ばせた鞄を投げつけ、勢いよくジャンプした。鼻の穴を開いて、そこに流れ込んでくる冷たい冷気、鼻腔を抜ける頃には湿り気を帯びた空気、肺に届く頃には真っ赤な熱気、ゴツン。私は拝めなかった、綺麗な赤を。在るのは無機質なグレイの壁、薄墨の空。衝撃は腰椎を脅かし、私の目玉を押し出さんばかりの脳みそ大躍動。そういえば昔、太陽を見て目玉が飛び出そうになる映画があったな、なんだっけ?判明した。私は今、腰を抜かしてる。58,000もするジャンフランコフェレのスカートの値打ちが暴落してる。鼻水が出てる、鼻血かもしれない、赤?鼻先を擦ると無色透明の液体がへばり付いた。項垂れるや否やちょっと待てよとそれを嘗めてみる。やはり鉄分の味がする。無色透明な血、何故赤を置き去りにした?いや、コレはアスファルトの味かも知れない。私がその真偽を確かめようと身をかがめると、目に入ったのは荒廃した山脈、黒々とした呆然都市、聳え立つ巨獣……鼠、君は何故私の前に現れた?赤のためでしょ。この自分本位なクソ鼠が!

「大丈夫ですか?」

振り向くと男性が一人。中肉中背、グレーのニット帽、裏地の厚そうなオリーヴ色のウインドパーカ、ブルーのデニムにニューバランス。社会人に見えない、この時間にそんな格好で彷徨いてるんだ、朝まで飲み明かしたプータリンだろう、お陰で鼠を見失った。コイツも敵だ。立ち上がろうと足首を捻るが思うように行かない。ヒールが折れてるらしい。何故誰も彼も私の邪魔をする?何故何もかも私の思い通りに行かない?段々と腹が立ってきた。

「肩、貸しましょうか」

まだいたのかこの男。軟派か?反吐が出る。私はコイツを追い払うべく笑劇した。「大丈夫です、少し足を捻ったみたいで、お気遣い無く」はい滑稽。私は両のヒールを脱ぎ去り、78,000もするファスナーを開けた。中には粉々になったMacBook……では無く、散乱した化粧用品、閉じ忘れた結果の大惨事生理用品、無事なのはむしろ糞眼鏡が作った林檎PCだけ。何もかも腹が立ってくる。

「ところで、貴女さっき鼠を踏みつけようとしました?」

なんだこの男、まだ去っていなかったのか。気持ち悪い、ストーカーか何かだろうか、頗る目敏い。何故男は皆自分は女性に話しかける権利があると考えてんだ?お前等の権利はただ一つ、精子を絞り出すことだけ、人類の反映と衰退をその無様な下半身で推し進めるだけだ。

「見間違いじゃ無いですか?転んだだけです」
「そうですか。僕はてっきり貴女が……」
「何です」
「何でもありません」
「じゃあ、さようなら」

私は裸足で立ち上がり、悠々闊歩と歩き出す。足裏のストッキングが少しずつ破れていく感触が妙に気に障る。画材屋はまた後に来よう、開店まで後3時間。自宅に帰り、大人しく開店を待とうだなんて、そんな時間に耐えられそうに無い。時間跨ぎに私の赤を確かめてみよう。すれば私の心は冷静を保てるかもしれない。

「ところで、貴女の捜しものはこれですか?」

振り向くと、そこには右手の薬指から赤を流した先の男がいた。唾液が贓物の底からせり上がってくるのを感じた。実際唾液の故郷が贓物かは分からない。でも私は確かにそう感じたのだ。体中の血液が沸騰し、慟哭のリズムが大サビ突入、私の意思に反して、唾液は唇の外に越境し、涎の名を襲名した。

世界に伝う赤の雫
私は取り零して
だから爆ぜた
そして私は潜水する
白くて黒い赤の海に



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