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精神の油田

「どうして僕をつけてたんですか」

寂れた昔ながらのバーで、僕と夏目雫は隣り合っていた。僕の尾行を悟られ、半場拉致された、そういう状況。

「君に個人的な興味があったから」
「というと」
「君みたいな類の人間に僕は会ったことが無い。その類は『美しい男性』と形容出来る。美意識という概念は僕の中で希薄でね、君の洗練されたそれを眩しく思った」
「何故声をかけなかったんです」
「観察に対話は必要ない」

言うと夏目雫は結露したグラスをなぞった指を、自身の唇にあてた。

「いつからつけてました?」
「君が穏やかじゃない局面になるほんの少し前、当所ない途方の時間、そんな時だ。君は何かを探してるように見えた。多分、それがあの男だったのかな。君は彼をどうするつもりだったの?」
「殴ろうとしてました」

臆面も無く彼は口にした。罪悪の倫理が抜け落ちてるのかもしれない。

「何故?聞いてもいいかな」
「僕の恋人を傷つけたんです。だから折檻ですかね」
「へえ、恋人想いなんだね。凄い執念だ。尊敬するよ」
「何故神保町に」
「僕は紛いなりにもライターだ。そしてこの街は古書店街」
「何を買ったんです」
「エリオットの詩集」
「読んでみたいなぁ。どんな本です」
「荒地が収録された、中編詩集だよ」
「見せて貰えません?」
「生憎僕は独占欲が強いんだ。人だろうと価値観だろうと、当然本にたいしてもね。君も男なら分かるんじゃないかな。君の恋人の個人的な一面を見せてと僕が頼んでも、恐らく断るだろう。それと同じだよ。その本が僕のものになった以上、それが僕の血肉になり本という形の価値を失うまでは、誰それに軽々に晒すつもりは無い」
「僕は出来ますよ。恋人の一面をあなたに晒せます」
「どうして?当の恋人はそう望んでないかもしれない」
「望んでいますよ。僕には分かります」
「何故」
「僕はその人の視点に立って物事を考えられる人間だからです」

夏目雫はある写真を僕に見せた。印刷された一枚の写真、そこに映る人物が野村香織本人か、夏目雫が女装した『カオリ』なのか、僕には判別出来なかった。

「綺麗な女性だ」
「でしょう?彼女は綺麗なんです。そして善人でもある。僕と違って」

僕と違って、その一言に妙な引っ掛かりを覚えた。しかし今はこのタイミングだからこそ確かめたい事がある。

「……覚えがあるな。カオリ?」
「え?」
「彼女の苗字は野村?」

言うと夏目雫は硬直した。

「そうか、へえ。奇妙な縁だね」
「知ってるんですか?カオリ……野村香織を」
「……いや、知らない」
「勿体ぶらないで下さい」
「何も知らない、そうした方がいい。君にも男性的なプライドはあるだろうし」
「教えてください」
「知ったところで君は幸福になれない」
「教えてください」

彼の口調に冷たい熱が宿る。さあ、ここからが本番だ。僕が彼の尾行を始めて知りたかった最も大事な情報。彼の心底に溜まるその精神の油田を、今から掘り当てる。

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