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1−6 湯船


深夜二時、最終的にタクシーに乗り込んで、私は都内の家路についた。玄関を開けると「おかえり、遅かったね」母親気取りの姉の一声。「飲んできたの?何か食べる?」食なんてどうでもいい。私の心は黒瀬花春の赤に首ったけだった。それ以外喉を通る気がしない。『暇なとき、遊びに来てね』彼女は私にそう言った。その日が待ち遠しい。「早苗、大丈夫?気分悪い?」うるさい女……私は無言の内に浴室の前で衣服を脱いだ。ぬるま湯に浸かり、臀部に微かな痛みを覚える。そう……私は再現できなかった、あのどす黒い赤を。あの日、再び訪れた画材屋で一式の赤を買った。学生時分使用したパレットを引っ張り出し、部屋中を新聞紙で覆い、何度も何度も調合した。しかし望んだ赤は生まれなかった……いや、まだ試していないものがある。私の赤だ。私はまだ、私だけが持つ赤を知らない。……試してみるか。鏡前のポケットに突き立つカミソリを手に取ってみる。私の赤は、私が満足できる赤だろうか。そうでなかったら……考えても仕方ない。とりあえず見てみよう。「早苗、ちょっといい?」姉の声だ。うるさいなぁ、何?「あんた何、このハンカチ」……あぁ、見られた。何故私の服を弄ってるんだこの女?何でも無いよ、赤の塗料を拭っただけ。「嘘、血のにおいがする」何故嗅いだ?クソ、面倒なアバズレだ。血?何言ってんの、お姉ちゃん嗅いだことあんの?「早苗!」姉がバスルームの扉を開けた。私の手に持ったカミソリを見やると、血相を変えて私の手からふんだくる。ヒスらないでよ、疲れてんだから「あんた、何しようとしてたの」何ってわかるでしょ、明日同窓会だから。いいから出てってよ、ウザいんだけど「早苗、お願いだから、変なこと考えないで。あんた、いつもそう。こうなると思ってた、あんたはいつも」うるさい!!出てけクソアマ!!私は湯船のぬるま湯を目の前の女に浴びせた。すると女は観念したように、カミソリを手に静かに出て行った。何で誰も彼も私を自由にさせてくれないのだろう。窮屈だ、私の世界は、この湯船のように、心を折りたたまなきゃ、満喫することが出来ない。

赤が欲しい。私を満たす赤が。
赤が欲しい。この湯船を真っ赤に満たす、赤が。



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