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デリカシーについて考える

事の発端は職場にて。私のデスクから約10m離れた場所に在籍する社員Aさんの家庭事情をAさん以上に、その隣席のBさんが大声で話をしていたことから始まる。

その声はフロア全体とまではいかなくとも、私の席まで聞こえているということは、かなりの人数に知れ渡っているということ。Bさんが持論を意気揚々と展開しているのに対しAさんは静かに頷いているだけで、話を終え満足そうに離席し歩いて行くBさんの後ろ姿に向かって、Aさんがポツリと放った一言に私は震えたのだ。

「本当デリカシーないな」


〜〜〜


デリカシーを広辞苑で調べると

「繊細さ、微妙さ、感覚や感情のこまやかさ」とのこと。

確かに私の一視点から見てもBさんの行動発言はデリカシーに欠けていた。話の全貌が周囲に聞こえてしまうという点でAさんの自尊心や羞恥心を傷つける可能性を考えずに、自分の意見を満足げに語る姿はまさに一方通行の関係性だ。或いは全貌は聞こえなくとも話の一部・ワードだけが聞こえていたとしたらそれもまた、周囲に誤解を招く可能性だってあるのだ。

「デリカシーに欠ける」と言う言葉は日常でもネット世界でも行き交っているけれども、ならばデリカシーのある人間とはどんな人間を指すのだろうか。


〜〜〜

それはきっと繊細さ、微妙さだけでは足りないのだ。きっとデリカシーのある人間はそれプラス、相手の心を丁寧に扱えて少しの空気の変化をすぐさま察知できる人間なのだろう。そしてその能力を上げるために、無意識で自分の基準となる感情・感情・感覚を磨いている人がその言葉にふさわしいのだろうと思う。


だからといって「デリカシーがない」と言われる人が悪いとは一概には言えないのは当然のことで。この点は価値観との絡みが濃厚で「それ良くないよ」の指摘に「え、なんで?」と返されることの方が多いのは、育った環境・周囲との関係性が大きく影響するからだ。そしてそれは誰にでもあることで、寧ろ人を批判する人の方がその価値観の傾きは大きいだろう。私もそのうちの一人で、きっと周囲からすると浮く部分が絶対的にあるのだ。でも自分自身その場で気がつくことは難しい、ましてや大人になると教えてくれる人はいない。じゃあどうするのか。


人の行動をよく見て自分の行動と当て嵌めて、学んでいくしかないのだ。


私の行動は一方的ではないか。個人の気持ちを尊重できているか。的外れなことを言っていないか。特定への攻撃になっていないか。それを考え直すには自分が自分で考える他ない。いつまでも誰かが隣で導いてくれる訳ではないし、その導きなしに押し付けがましい行動をし続けることは自分の世界を狭めてしまうのだから。でもそれは難しい。意識していないと生活のほとんどは次々流され、何にも違和感を抱く事なく過ぎ去ってしまう。だから、意識を保ち続ける事が必要なのだ。


「人の振り見て我が振り直せ」を頻繁に行い、自分の行いを見つめ直す。後悔する点があるのならば意識を持って直す。その繰り返しにより、大切な人間関係を築く事が出来るであれば、何も苦痛ではないはずだと私は思う。

今日がまさにその日で横目で見ながら話を聞きながら、自分置き換えて考える事が多かった。そんな1日だった。


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