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「家庭をもつ」とは。


今年26歳になる1995年生まれ。
SNSを開く度、周囲では結婚・結婚・結婚の報告。「おめでとう」と心から祝福出来る自分がいる。中学校を卒業して以来、端末上でしか近況を知らない同級生達が結婚するというのは奇妙な感覚だ。それは写真で様子は知っているのに、頭の中のお互いの姿は14のままで止まっているから。どこかしらで突出するために必死だった私達は何者になれたのだろうか。

本音をここで述べるならば「おめでとう」という祝福よりも「家庭をもつ」という選択をした友人たちを尊敬している。というのも私は今まで一度も結婚に憧れを抱いた事がない。盲目夢中な恋愛の経験も皆無、ただ何となく見栄と居心地がいいからという理由でお付き合いを続けてきたひどい女だ。 


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誰かと新たな家庭をもつ、ということは勿論自分だけで生きていくことではない。相手に対して誠意を持ち優しくあり、励まし合い、ぶつかり合い。パートナーとしての道はただ隣でニコニコしていれば良いだけではない。


そしてそれは親になったらそれ以上のことで。日に日に増える社会的責任や、働き方を思慮すること、給料をどうやりくりするか、親戚付き合い、その中での立ち位置。想像だけで呼吸がしにくい。「自分以外の何かに対しての責任をとることが出来るのか」と問われたら私は大きく首を横に振る。しかも何度も振り続けるだろう。


だらしない自身のことでお手上げ状態の私は、誰かのことを深く思いやれない。「そんなことない」と言われても私の満足感はいつまでも低いままで「何でもっと良くしてあげられなかったのか」と悩んで悩んで納得がい数。そのループにハマってしまうと頭が乱され、そうして眠れない日々に突入するという至極単純な人間だ。誰かと生活することは楽しい。それは分かっている。だけどそれ以上に苦しさが勝つ。もっと楽に簡単にポーンっと勢いだけで、水溜まり飛び越えちゃうくらいの感覚で良いと分かりつつ、変に意固地な私はそれすらを恐れるほど臆病だ。



靴が汚れたらどうしよう
服に跳ねたら何で洗えばいい
そもそもものすごく深かったら怖い



あるか分からない心配に苦しめられることが多いが、怖いことにもしかしたら、その状況に自分を置くことを好んでいるのかもと思うこともある。追い込まれる自分が好きというか、暇な時間がない方が気持ち的に楽だ。でもそれは自分のことに限り他人の悩みに真摯に向き合えないという欠点つき。家庭をもつ。今の私がその判断を下したら、きっと私という存在はどんどん薄れていくだろう。好きなことを手放し他の幸せを掴む自分が想像できない。そして、パートナーにも子供にも、優しい妻・母親ではいられないだろう。


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そんなことを考え始めたのは五年も前のことで、私は母に謝った記憶がある。

「多分私、一人で居続けると思う、ごめん」


母は笑って言った。

「今もうすでに孫が二人もいて、娘は働いていて頑張ってるんだからこれ以上望んでない。結婚が全てじゃないんだから謝る必要はない。自分の生活を大切にしなさい。」


きっと同じ遺伝子の母だ。悩み、決断し、多くの涙を流してきただろう。そんな母の幸せを削ってしまう決断を私は選ぼうとしていると思うと心が痛い。それでも、母は私の母だから。安心をくれた。いつかが訪れるかもしれない出会い、いつかこの人に私の人生全てもらってほしい、この人の人生の片棒を担ぎたいと思える素敵な方に出会うかもしれない。


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可能性はの高低は口にするほど心がギュッとなるけれど、今はこのまま強くなりたい。「家庭をもつとは」なんて大それたタイトルをつけたくせにその場所とは反対岸にいる私。答えは何も分からないけれどそれでいい。


たくさんの人に出会い、たくさんのものを見て、そして答えを自分の言葉と共に理解し見つけていこうと思っている。



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