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短編小説|雨上がりの仲直り

「行ってきます」


 そう言った彼は、朝ごはんも食べず、わたしが淹れたコーヒーを一気飲みして、今日も慌ただしく出かけていく。

 バタンッ、と玄関のドアが閉まる無機質な音を聞くたびに、わたしの心も凍りついていくように感じる。

 この朝の光景が当たり前になってしまってから、もうどれくらい経つだろう。


 彼が仕事で大きなプロジェクトを任されることになったと、うれしそうに話してくれたのは、半年前のことだった。

 少し良いワインを開けてふたりで喜んだのもつかの間、すぐに忙しくなっていった彼は、朝早くに出て夜の帰りも遅くなり、出張もしばしばで、そんな多忙な生活を、わたしは心配しつつも応援していたはずなのに、今は心から支えてあげることができなくなっていた。

 私と彼は同い年で、大学時代からの付き合いになる。

 お互い大学を卒業し、就職してからも関係はずっと続いていて、そのまま自然と同棲をはじめた。
 
 あの頃のわたしは「一緒にいたいから」という言葉が素直に言えなくて、家賃を抑えられるなど同棲のメリットをいくつか挙げて同意したふりをした。でもあとで、彼も同じような本心が言えずいたことを知り、素直じゃないね、とふたりで笑い合った。

 コーヒーがとくに好きな彼は、付き合う前からわたしを、おいしいコーヒーを出すカフェにあちこち連れて行った。
 
 わたしはコーヒーよりも紅茶派だったけど、彼のことが好きだったからそのことをずっと言い出せずにいた。

 でも付き合うようになってからは、気づけば、好んで紅茶よりもコーヒーを選ぶことが多くなっていて、コーヒーを飲むたびに、わたしは彼のことをもっと好きになっていった。

 わたし達のデートは、どこでなにを楽しんだとしても、その日の終わりにはいくつかあるお気に入りのうちのひとつのカフェに寄ることがお決まりの流れになっていた。

 コーヒーを飲みながら、いつもわたし達はたわいのない話をした。

 大学生のときは、友人のことや観たばかりの映画のこと、気に入った音楽のこと、難しかった講義の内容のこと。社会人になってからは、仕事の話をするようになった。

 彼は会社員、わたしは雑貨好きが高じて、買い付けなども行う雑貨屋の店員として働きはじめ、お互い慣れない社会人生活に苦戦しながらも、愚痴を言ったり、励まし合ったり、ときに意見が合わずけんかもしたけど、ふたりで支え合って進んでいる気がしていた。


 コーヒーのほろ苦い香りが漂う中、ふいに言葉が途切れ、わたしは彼を見つめ、カップを傾ける彼の瞳の中にははにかむわたしが映る。

 日常にふと訪れる、ささやかで満ち足りた、胸がぎゅっと温かくなる時間が、わたしは何よりも大切だった。


 でもそれももう、だめなのかもしれない。


「ちょっとお互い頭を冷やそう」


 きっかけは何だっただろう、その日の彼は、いつもより少し帰りが早く、わたしは久しぶりに彼の顔を見ることができてうれしかったはずなのに、気づけば会話は口論になっていた。

 わたしは抑え込んでいたすれ違いの日々への不満が、せきを切ったように止まらなくなり、普段なら言わないような言葉を吐いてしまう。

 彼は濃い疲労がにじむ顔を片手で覆いながら、深く憤りのため息を漏らした。

 そして彼は出て行った。

 そのまま夜中をどれだけ過ぎても、帰ってこなかった。


 翌朝起きても彼の姿はなく、でも一度着替えに帰ってきたのか、昨日着ていたシャツなどが残されていた。

 自分の気配しかない部屋の中で、わたしはいつもと同じようにコーヒーを淹れようと、豆を挽くミルのハンドルに手をかける。コーヒー好きな彼は、豆から挽くことにこだわりを持っていて、教えてもらううちに、彼よりも出勤時間が遅いわたしが朝は淹れるようになっていた。

 でもわたしの手は、すぐに止まる。

 気づけば紅茶のパックを手に取っていた。熱いお湯をカップに注ぎ、やわらかな色合いのミルクティをこくりと口に含む。とたんにまったりとした濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。わたしの好きな味だ。

 ぽたりと、カップの中に雫が落ちる。涙がこぼれていた。

 彼のことを嫌いになったわけじゃない。でも一緒にいる意味が見出せなくなっている。どうしたらいいのかわからない。

 ただただ涙が止めどなくあふれて、口の中からは、もうミルクティの味は消えていた。

 


「あ、雨……」


 空を見上げると、どんよりとした曇からぽつぽつと雨粒が落ちてきていた。

 今朝はあのあと、腫れたまぶたを急いで冷やし、何とかメイクで誤魔化して、勤めている雑貨屋へ出勤した。午後になり客足がいったん途切れ、店長からお使いを頼まれたその帰り道だった。

 わたしは、さっとあたりを見回す。

 お使いを済ませたあとは、そのまま遅い昼休憩に入っていいと言われていたこともあり、雨宿りついでに入れるお店を探す。ちょうど歩いている道沿いの先、住宅街にひっそりと佇むカフェらしきお店が見えた。

 カラン、と軽やかなベルの音が鳴るドアを物珍しそうに開け、店内へと入る。

 あ──。

 と思った瞬間、慣れ親しんだほろ苦い香りが吸い込んだ空気とともに鼻へと抜ける。

 コーヒーのにおいだった。

 つぎに目を見張ったのは、重厚な梁がめぐらされた吹き抜けの天井に、アンティーク調のテーブルやイスが配置された温かみのある店内。濃い茶色の色合いをしたウォールナットのカウンター上には、コーヒーを淹れる道具であるサイフォンがいくつも並んでいた。

 誘われるように、わたしはカウンターの前の席へと座ると、


「いらっしゃいませ」


 と声がかかる。

 カウンター越しの向こうに目をやると、端正な顔立ちをした男性が微笑んでいた。自分と同じ二十代くらいにも思えたが、品よく着こなされた白いシャツに黒いネクタイという落ち着いた身なりは、もっと年上にも感じさせた。

 店内には、わたしの他にも常連客らしき中年男性がいて、聞こえてくる会話から、このカウンターの中の男性が店のマスターなのだと知る。


「おすすめはありますか?」


 わたしはメニューを一通り見たあとで、マスターの男性に訊ねる。

 彼はやわらかい笑みを浮かべると、説明をまじえて教えてくれる。わたしはそのおすすめコーヒーと一緒に、ホットサンドも注文した。


 どうやらおすすめのコーヒーは、サイフォンを使って淹れてくれるらしい。マスターの流れるような動作に興味をそそられて眺めていると、なにかきらりと淡く光るものが視界の端に映る。

 見れば、マスターの黒いネクタイについているネクタイピンだった。いくつかの色の異なる宝石がついたそれは、それぞれの宝石の頭文字を繋げて⦅REGARD(敬愛)⦆などの言葉を表すリガードジュエリーだろうか。アンティークのような年代を感じさせるよい品で、雑貨好きでもとくに古いものに目がないわたしとしては、つい気になって凝視してしまう。

 と、カランッと店のドアが開いた音が響いた。


「いらっしゃいませ」


 マスターが言い、わたしは何の気なしにそちらに顔を向けたつぎの瞬間、目を瞬かせた。

 偶然にも、そこにいたのは彼だった。

 彼のほうも、わたしがいることに驚いているようだった。

 しばらく硬直したままのわたしと彼を気遣ったマスターが、「お席、移動されますか?」と声をかけてくれる。


 促されるまま、わたし達はテーブル席に無言のまま腰を下ろす。道路に面したガラス窓には、雨粒がぽつぽつとついている。カウンター上のサイフォンから聞こえるコポコポとお湯の沸騰する音が、やけに大きく耳に響く。

 ずいぶん経ってから、


「どうしてここに?」


 そう彼が訊ねてくれたのをきっかけに、わたしは仕事のお使いの帰りで雨宿りしようとたまたま立ち寄ったことを小さく告げる。そして、


「昨日は、ごめんなさい……」


 掠れた声で謝った。

 彼は少しくまの残る顔を横に振って、


「俺もごめん」と言い、「本当は今度、ここに連れてこようと思ってたんだ」とちらりと店内に目をやった。


 聞けば、彼がこのお店に来たのは二回目で、最初は偶然見つけて気に入ったようだった。今日はわたしと同じく仕事の外出途中、近くを通りがかったときに雨が降ってきて寄ったらしい。

 ややあって、言葉を切り姿勢を正した彼は、任されていたプロジェクトが一区切りついたこと、突然の退職が重なり人手不足だったところが補充されたことなどを、わたしの好きな心地よい重低音の声でゆっくりと話してくれた。


 わたしはぎゅっと拳を握り締める。彼を気遣えなかった自分の至らなさが悔しかった。

 そんなわたしに彼は、自分もいっぱいいっぱいだったからごめん、と優しく謝ってくれた。

 ふっと彼の口元がやわらかく緩み、わたしも少しだけ潤んだ目で微笑む。

 運ばれてきた匂い立つコーヒーを口に含むと、マカダミアナッツのようなほのかな甘さに、メロン果汁のような酸味が口いっぱいに広がり、飲み込んだあとに残るのはさわやかな清涼感だった。


「おいしい」


 思わず、わたしはほうと息を吐く。

 正面に座る彼も満足げに、今後は休みの日にゆっくり来たいね、と微笑んでくれた。

 外を見ると、雨はもう上がっていた。 



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▽⦅コーヒーを片手に味わう物語⦆をまとめたマガジンです。コーヒー片手に読める、コーヒーを絡めた物語、のぞいてみていただけるとうれしいです!




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