【ハーブ天然ものがたり】萩
地力回復菌
くさかんむりに秋の文字をあてられた萩は、まさに秋を代表するハーブ。「秋の七草」のひとつです。
萩には種類がたくさんあり、百合や蘭とおなじように、萩の名は特性がにている種の総称ですが、秋の七草にえらばれたのは日本全土にひろく自生している山萩です。
ウィキから写真をお借りします。
公園などに植えられている萩の花は、はやくて7月ころから楽しむことができ、晩夏には弓なりにしなる茎の先が風にゆれるのをみていると、秋だなぁと「もののあはれ」情動がうごめきます。
「万葉集」に収載された萩のうたはとてもおおく、古い時代から日本の秋思の情緒にふかく根ざしているハーブだったことがうかがえます。
花期が10月ころまでとながく咲きつづけ、花のおわるころは「こぼれ萩」や「花がこぼれる」と表現されます。
桜は舞い散り、桃花笑う。
椿は落ちる、牡丹は崩れる。
零れるのは初春の梅と、秋の萩なんですね。
萩は秋の気配をかもす花として詠まれ、日本の古典芸術では鹿とのくみあわせがおおいハーブです。
花札では猪と一緒に描かれていることから、鹿も猪も山の神さま、「シシ神さま」と考えるなら、萩は日本のシシ神さま系譜御用達お座布団なのかもしれません。
萩はマメ科植物で、イネ科やバラ科、ラン科やキク科とならんで、現在の地球環境に適応・繁栄した巨大グループの一群です。
マメ科には根粒菌という特殊なあいぼうがいて、地球の大地にひろく繫栄することができました。
根粒菌は土のなかで自由に生きている菌ですが、マメ科植物の根っこのなかにはいりこみ、植物とともに生きることもできます。
根粒菌が植物からもらうのはリンゴ酸などの栄養分。
植物が根粒菌からもらうのは必須元素である窒素。
窒素は地球の大気の主成分で、空気中にはおよそ78%もふくまれています(酸素は21%ほど)。
気体として存在している窒素は、植物にとって食べられない原材料のようなもので、自然界では一部の細菌と雷などによって、食べられる形態に転換するといいます。
根粒はすぐれた窒素料理人。
根粒菌をおかかえシェフとしてうけいれた植物はいつでも窒素食べ放題となり、やせた土地でもよく育ちます。
萩はパイオニア植物として荒れ地にいちはやく根づくハーブでもあります。
植物の3大栄養素といわれる窒素、リン酸、カリウムのうち窒素は植物をおおきく生長させる役割があり、葉や茎の細胞をつくるタンパク質や光合成にかかせない葉緑素のもとになります。
リン酸は花や実の生育を活性化させ、カリウムは根のはりぐあいをよくします。
根粒菌との共生によってつよい生命力をもったマメ科ハーブ、「はぎ」の名はあたらしい芽がどんどんでることを意味する「生え芽」から「はぎ」となった説があります。
菌は地球世界におけるもっともちいさい生命種(だとするならば)、物質体と生命体(エーテル体)の中間にいる存在であり、植物はもちろん動物や人間とも共生しながら、細いちいさなとおりみち(道、筒、孔、毛穴)を無数につくって、気体、液体、固体のなかを縦横無尽にかけまわり、境界線をいったりきたり、どこにもここにも存在することができる、神話のなかのトリックスターのようだと感じます。
トリックスターは、賢明な愚者とか白髪の赤子、聖なる冒涜者と呼ばれる越境者。
体裁や体面を気にしすぎて、行動できなくなった人のまえにあらわれると「既成概念をブレイクスルーしよう」とばかりに人生を活気づけ、清濁あわせもつ生き方を体現するフシギ存在です。
人類にとっては文化的英雄として立ちまわる神話や伝承も世界中にあふれており、天界の牛を盗んだヘルメスや、火を盗んだプロメテウス、コヨーテ、水と陽光を盗んだワタリガラスなどが象徴的でしょうか。
権威や権力構造の中心に鎮座することなく、過度なシステム化によって突破力を失った世界構造が、漫然としたうつ状態におちいったときに、外部から新鮮な成分をもちこみ混乱に乗じて場を活性化させる手腕は、トリックスターの常套手段ともいえます。
大地のなかで自由に生きる根粒は、風元素界から窒素を調達して土元素界を活気づける地力回復菌といえます。
古の時代から途絶えることなく繁殖してきた萩は、根粒菌をうけいれ共生することで、種をふやしながらたくましく、日本全土に自生しつづけています。
菌との共生をヒトのからだでみると、腸内にはおよそ1000種という多様さで、100兆個の細菌がすんでいるといいます。
常在菌は口内や皮膚、消化器官はもちろん呼吸器、泌尿器、生殖器などにもすんでいて、肉体をかたちづくる細胞数よりはるかにおおいわけです。
腸内フローラとか、腸活などのことばも一般的になってきて「○○を食べると善玉菌がふえる」というようなおはなしも、時流にのっていろんな説が出ては消えてゆきますが、いったい自分のからだは細胞でできているのか、菌でできているのか…(はてさて?)。
底抜け脱線伝言ゲーム
お彼岸のころにいただく代表的なたべものといえば「おはぎ」「ぼたもち」。
名の由来は諸説ありますが代表的なのは、春は「ぼたもち(牡丹餅)」、秋は「おはぎ(御萩)」と、季節の花で呼び名を変えるというものです。
春は山の神が里におりてくるころ。
秋は里から山におかえりになるころ。
日本の民俗学では定説ともいえる自然信仰のひとつですが、豊穣をもたらす山の神を春は牡丹の花でおさそいし、秋は萩の花でおみおくりする風習があったのでしょうか。
彼岸(あの世)との向きあいかたを、現代日本では外来宗教である仏教をとおして教育され、先祖供養に収束して民間信仰となった経緯があります。
「西方浄土」と呼ばれる極楽浄土は西側にあり、この世は東にあるので、太陽が真西にしずむ春分と秋分は、あの世とこの世が近くなってつながる日と考えられてきました。
あちらとこちらの通路がひらき、黄泉平坂の往来もにぎやかに、四大精霊や妖精、もののけ、鬼さまや古い神さま、星の使者たちが地球とつながることができるなら、お彼岸は肉体の遺伝的つながりがあるご先祖供養にとどまらず、霊魂魄の系譜につながる故郷星を思いだす機会の日でもあるのかもしれません。
異界とのつながりをもっと広義にとらえていた(であろう)古の人々にとって、境界線がひらく日・とじる日などの節目を数える暦や、供える植物、たべもの、お飾りや棚のしつらえなどは、人生におけるファースト・プライオリティだったのではなかろうか、と。
むかしの日本はまだ、物質成分と精妙なエネルギーの分化がそれほどすすんでおらず、精霊や神さま、もののけたちは、ともに生きる生命種という感覚があったのだろうと考えています。
時代とともに異界存在は見えない菌みたいになってゆき、さらに時代がくだるとますます分化はすすみ、物質界は固定されたフェイズに移行して、炎や滝のなかに精霊がいると発言するだけで、あたま狂ってるヒト認定されるようになりました。
菌も異界存在も、ほんとうはみえる物質をはるかに凌駕し、地上世界のあらゆる事象に影響をあたえることは(こころのどこかで)わかっているのだけれど、ふだんはその存在を歯牙にもかけず、暮らしが立ちゆくのが現代スタイルです。
上記引用いたしました柳田国男さんの文献に
「ミソハギの用途には、まだ沢山の窮(きわ)められざる神秘がある。
これを蓍萩(めどはぎ)と呼んだのにも仔細(しさい)があるだろうが、日本の自然史はまだこれを説く迄に進んでいないのを遺憾とする」とあります。
ミソハギは盆花や精霊花とも呼ばれる、禊に重用されたという「禊萩」のことをいっているのだろうと思うのですが、現代の学術的分類ではミソハギ科ミソハギ属に分類されておりマメ科ハーブではありません。
さらに「めどはぎ」とよばれるマメ科ハギ属もいて、まっすぐに立ちあがる茎を筮竹(占でつかう棒)のかわりとしてつかっていたことから「めどがたつ」⇒「目処萩」と命名された説があります。
あるいは柳田国男が使用した漢字、蓍・筮の文字をあて「めどぎ萩」がなまった説もあります。
なんとも歯がゆい底抜け脱線ゲーム。
地の理を常識とする現代仕様のあたまでは、ハギと呼ばれるハーブの仔細はつかみきることができません。
植物界の神秘においつくには、地上世界のアカデミックなベクトルを逸脱してみないと、わからんことがふえるばかり、という気がします。
春分と秋分、昼夜おなじながさになる特別な日にお招きするまれびとや異界人を思って準備した自然界のめぐみは、なんらかの意図があったのでしょうし、エリアによって四季のちがう日本には、その土地ならではの天仙界のきざはしも、さまざまあったことでしょう。
いまではすっかり、とんちんかんな伝言ゲームよろしく、時代ごとに変化する常識にほんろうされて、商業化された「しきたり」がのこるばかりです。白いお米のまんまる餅や団子そのままでなく、小豆でおくるみしたお萩、牡丹餅にも、きっとなにかしらの意味があったのだろうと思います。
「盆花の必ず野山に採られ、ことにその種類に制限があった」という伝承さえ、TPOをわきまえて発言しなければならない忖度ワードになってしまった現代では、萩に似ていることから命名された禊萩の神秘や、筮萩の名の由来もどこかでとぎれてしまいました。
「萩」の名をもつ植物のフシギは、荒野に自生する花と親しみながら、おしえてもらえる日をまつしかありませぬ。
ちなみに筮竹につかわれたハーブはほかにヤロウ(西洋羽衣草)も有名です。過去記事で綴りましたのでご興味ありましたらゼヒ。
天までとどくマメ科植物
日本では異界とのつながりをテーマにした伝承物語がたくさんありますが、そのうちのひとつに人間と天界人の異類婚姻譚があります。
天女が地上世界で水浴しているとき、人間が羽衣を盗んで嫁にし、子をもうけたのちに天女は、羽衣をとりもどして天にかえるというたてつけのおはなしです。
いろいろの後日譚におおいのは、天女は子を連れていってしまい、のこされた夫は天にとどくほどの蔓性(瓜や豆)の植物を植えて妻子のいる天界に到達するというおはなしです。
なかには天人と地人のなかをとりもつ翁に化身した鹿がでてくるおはなしもあります。
翁と鹿のくみあわせは七福神のひとり、福禄寿/寿老人を思い起こします。
過去記事、72候【花鳥風月】大寒の候にも綴りましたが、福禄寿/寿老人の原型は道教の南極老人で、不死の霊薬に満たされた瓢箪をもち、牡鹿をしたがえ、桃をもつ姿で描かれることがおおいです。
道教ではりゅうこつ座α星のカノープスを南極老人星として神格化し、南極仙翁、または寿星と呼んでいます。
ヒンドゥー教においてはインド神話に登場するミトラ神の子、聖仙アガスティヤの星と呼んでいるそうです。
日本では2月の南空にのぼるカノープスは、長寿と幸福をもたらす星だと伝承されてきました。
りゅうこつ座の船にのって境界線をとびこえ旅することは、肉体寿命がすべてという限界を突破して、魂ほんらいの長い長い歴史を思い出すこと、つまりすべての記憶をとりもどすことを「長寿」と表現したのではないかな、と考えています。
南極老人の瓢箪に入っている不死の霊薬は、すべての記憶をとりもどすエッセンスなのかもしれないな、と。
山萩の別名に鹿鳴草がありますが、鹿たちが繁殖期に鳴くころと、萩の開花時期がかさなり、牡鹿が萩の花にプロポーズをしにきたよ、という歌に由来するとか。
梅や松をぬいて、萩は万葉集にいっとうおおく収載された植物ですから、神仙たちとともにくらしていた(であろう)時代には、天地のご縁結びとなる「はぎ」に、ことさらふかい情趣をよせていたのかもしれません。
鹿と萩の異種婚姻は、天女の羽衣をぬすんで妻にした人間のメタファーのようにも思えます。
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お読みくださりありがとうございました。
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