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しばイッヌ展覧会

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2021年4月の記事一覧

その立ち姿にちゃんと感銘を受けております。

道にひたすら立つという仕事。 本当におそれいる。たとえば、交通整理で手旗をふっている方や、飲食店の前で「19時までビール半額!」など手持ちの案内板をもっている方などが思い浮かぶ。 とくに、入り口の前に立つ警備員の方など、あまりからだの動きも少ない現場をお見かけすると、どのくらいのペースで交代しているのかな…といつもかんがえる。 今日で山口県への出張が終わった。 飛行機で秋田県へ帰る途中のことだった。 山口⇔秋田間は、直通便がないので、羽田空港で乗り継ぎをする。そして、

「レビュー」はただしく使いましょう。

なんだかホテルの部屋がくさい。 出張先のビジネスホテル。ウッド調の室内に観葉インテリアがあったりと、それなりに洒落ている。清潔感もある。なのに机にすわっていると、ほのかに異臭がする。なんだか、吐瀉物のようなにおいがうっすら漂う。 はじめは風呂場やゴミ箱からにおうのかと思ったがそうでもない。においの原因を探したが分からずじまいでいまに至る。 こんなとき「部屋を代えてください」と訴えるような生き方ができていればよいが、そんな豪胆さを持ちあわせていない。 なにをするかといえ

書く30分と、読む1分。

4月、ということで企業では新人研修の季節。 かくいうわたしも、研修の講師として山口県までご出張。わが社では、新人研修は1ヶ月間だ。お互いおっかなびっくりだった初日がつい昨日の出来事のようだが、はやいもので残すところあと数日となった。 はじめは、全員が他人のお宅にお邪魔しているようなよそよそしさをまとっていたが、いまでは休憩時間にプライベートな会話で盛りあがる。 だいたい、人が職場というその空間に慣れ、住人となじんでいくキッカケは、直接的な業務以外の雑務だったりする。

毎日投稿をすることで味わえる世界。

「アイデアが降ってくる」という体験。 通常、この現象はなにか創作をしていないと体験できない。かんがえた末に「思いつく」とは微妙にちがって、まったく頭の中になかったものがとつぜん「パッ」とあらわれる。 しかもそれは「自分の求めていたもの」であると同時に、自分の思うがままにコントロールもできる。 毎日投稿という創作を行っていると、この体験をすることができる。 毎日投稿は、1日を過ごしながら頭の片隅で「今日はなにを書こうかなあ」とかんがえて生きることを強いられるが、ふと毎日

将来の夢は、少年になること。

「おとなの味」というものがある。 まっさきに思いうかぶのはビール、つづけてコーヒー、抹茶など…あれ?飲みものばかりだな。ええっと、食べものならセロリ、ゴーヤ、サンマのはらわた、とかかなあ。 こうして挙げてみると、味のなかでも「苦味」はこどもにとって受けいれがたい味の代表だ。そして、なんだか知らないが、おとなになっていくにつれ、次第にこの苦味たちの「とりこ」になってくる。 たとえば20代30代になっても、苦い食べものがきらい、などと言っていると「舌がおこちゃまね」なんて、

書きつづけるだけでは文章力は高まらない。

212日ものあいだ、書きつづけて知り得たのは、書くだけでは文章力というものは身につかないのだ、ということ。 これは残酷なようで、たぶんそうとう芯を食ってる。やっぱり世の中のすべて「インプット」と「アウトプット」の両方をいくたびもループしてはじめて、スキルなるものが形成されてゆくのだ。 ちなみに筋トレもいっしょ。 ただハードなトレーニングをしていれば、筋肉がモリモリつくわけではない。ボディービルダーの名のごとく、ボディー(からだ)をビルディングする(建てる)わけだから、材料

わたしが厨二病だったのは、やっぱり中二のころだったと思う。

わたしの中学生時代は、ちゃんと厨二病だった。 わたしが中学2年生だった1994年の当時は、ヴィジュアル系バンドが全盛期。そして、少年マガジンや少年サンデーは「ヤンキー、不良」マンガにあふれていた。テレビゲームではドラクエやファイナルファンタジーがシリーズ4作目だの5作目だのをヒットさせていて、世の中にはRPGゲームが量産されていた。 多感な中学生だったわたしは、それらすべてにあこがれていた。バンドマンにも、不良にも、勇者にもなりたい、いやなれる!と信じて生きていたなあ。

「書きたい欲」に苦しんで生きていきたい。

結論からいくと、書いて生きてゆく我々は三大欲求だけでは足りないと思うのです。 「睡眠欲、性欲、食欲」ここにもうひとつ「書きたい欲」。合計で四大欲求を搭載して、その欲に苦しんで生きていかねばならぬと。 「よし!今日は残業しないぞ!」と朝からこころに決め、ようやく定時を迎えた。 ふとメールボックスを見ると、後輩から「イベントのレポート記事の校正をして欲しい」と仕事の依頼が。Wordの文書が添付されている。 いやいやいや、今日はもう帰るんだから、明日やることにするよ。後輩のメ

「おそい」という世界観を楽しみたいんじゃないか。

わたしは歩くスピードがべらぼうにおそい。 ふつうの人が徒歩10分であれば、徒歩16分くらいかかる。おそく歩くことにポリシーがあるわけでもないし、はやく歩く人はそれだけ時短になるのだから、うらやましい。 会社の人や、奥さんと一緒に歩いていると「なんかおそいね」とせかされる。そうなると、ちいさく息を切らしながらがんばって早歩きをする。 でも、ひとりのときは、はやく歩こうとしても、こころも身体もいやがる。どうせ、いちばんおそい移動手段なのだから「おそい」という世界観をぞんぶん

われわれは「論客」ならぬ「文客」です。

「刺客」ということばがある。 この意味は「暗殺する人、暗殺者」である。 どんな人物像をイメージするかといえば、江戸時代にいそうな、鋭い目つきで着流しをまとった浪人。ぱっとみはただの浪人なのに、腰の日本刀だけ異様に手入れがされているような。 これが「剣客」となると、急に着物もシュッとして、なんとか一刀流の免許皆伝をしていそう。髪も整えられ、礼儀ただしく、裏世界の住人っぽい「刺客」よりも、正統派なイメージ。 「◯客」という字面は、とにもかくにも「切れ味が鋭そう」でかっこいい

下書きが山ほどたまってる!って方、うらやましいです。

あしたは、記事を書く時間が作れない。 ので、きょう中に記事を2本書こうと思った。が、ぜんぜんすすまない。当日のぶんを1本を書き終わったら、もう書けない。 noteをはじめた当初、たぶん毎日投稿10日目とか、そのくらいのころは下書きを4本ほど溜めたりもした。 200日も超えてくると、まあ、むりだ。 日々、生きていくうえで、ネタやテーマが降りてきたらササッとメモしている方は多いと思う。 メモ帳を見返せば、あきらかに書けるテーマが並んでいるのに、時間が経ってながめていると

おとなになると「感性がにぶる」わけじゃなくて、みずから感動を減らしているだけ説。

おとなになると「感性がにぶる」とよく言われている。 でもじっさいは、おとなはたくさんの経験があるし、たくさんの音や、ことばや、絵や、人に出逢って生きている。ほんとうであれば、それらかずかずのメモリーは、クリエイティブな現場において「若さ」だけでは作れない色の深みやあざやかさを演出できるはずだ。 それなのに、若い方々(10代とか、20代とか)の着想や切れ味にはかなわないと思うことは多い。だいたい、自分自身にたいしても「20代のころはもっとキレがあった」と感じるくらいだ。

他人さまの「生(なま)の気づかい」って、染みるわあ。

そのひとことで、景色が変わる。 「お待たせしてしまって、すみませんでした」 レジを打ち終えたあと、とつぜん彼女はそう言った。 *** ドラッグストアでのできごと。 はじめてその店を訪れたのは、数日前だった。たまたまその店の近くを歩いていて、のどが渇いたので水を買いたいと思った。入店すると、入り口にいた男性店員も、品出しをしている女性店員も、すれ違った女性店員も、全員が「いらっしゃいませ」を言わない店だった。 違和感は感じてしまったけど、 (まあそういう方針なのね)

毎日投稿をしていれば、かならず書けない日はやってくる。

絶対に書けない日は来る。 毎日投稿をしていると、かならず書けない日がやってくる。あたまがぼーっとして、書けないというか、書きたくないに近い。「ああ、もういいや」と思う。そして無為に時間だけがすすみ、やがて0時の足音が聞こえる。 そんな前門の焦燥感と、後門の絶望感にはさまれて窮地に立たされたら、いっそのこと、「書けない自分を書いてしまう」のは悪くない。 いつだって、テクニカルな文字の羅列より、素直なこころの叫びが他人さまのアンテナには届きやすいからだ。 そして、毎日投稿と