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セレスタン・ギタールの日記から探るフランス革命期の貨幣事情

ルイ16世が処刑された1793年1月21日は、気温は3℃で天候は曇り空の湿った日だった。これはギタールという名の一般市民がつけていた日記から得られる情報である。フランス史には取り挙げられることのない些細な情報だが、気温や天候から空気感のようなものが伝わり、当時の情景がより鮮明に想像できる。

当時の人間が記した日記は、自分がそこにいたかのような感覚にさせてくれる。肌寒くどんよりと曇った空の下、ルイ16世はこの世を去った。そうだったのか。そんなこと、教科書のどこにも書いてなかった。と、静かな感動がある。リアルタイムで生きた人間が残した一次資料は、やはり胸に響くものがある。

そして何より興味深いのが、このギタールが当時のフランスの貨幣事情について事細かに記録してくれているのだ。ギタールはルイ金貨やエキュ銀貨の交換レート、生活に必要な物品の価格などを丁寧に日記に記し、時にはその価格の高騰に嘆く。王族でもない庶民の老人が遺した日記。だが、そこには当時の多くのフランス庶民が見た本当のフランス革命の姿が映し出されていることだろう。

1793年1月17日木曜日
気温0℃、氷が張り、北風が吹く。天候一日曇り。ルイ16世に死刑が宣告された。ルイ16世は3名の弁護士を仲介して国民公会に書簡を送り、控訴を主張。だが、ロベスピエールとガデはルイ16世の控訴に異議を唱えた。国民公会は、全員一致で控訴を棄却。死刑か執行猶予は明日決まる。

「死刑か執行猶予は明日決まる」結末を知っているものの、ページをめくる手が震えるほどの緊張感。革命期のフランスに意識だけは飛んでいた。結果がどうなるかが分からないギタール本人は、さぞかしこの結末に緊張感を覚えたことだろう。

1793年10月14日月曜日
気温15℃、朝から雨が降っていた。マリー=アントワネットが革命裁判所に出廷し、第1回の尋問が行われる。15日午前4時に死刑宣告。16日正午に革命広場で処刑。二輪馬車に乗せられ、処刑場まで連行。監獄を出る時から髪を切られ、両手を後ろに縛られていた。白い部屋着姿だった。

マリー=アントワネットの死について淡々に綴られているが、やけに臨場感がある。死刑宣告や処刑の時間帯、王妃が連行される様子やその時の装いなどの情報が得られる。王妃の処刑に対しギタール本人がどう思ったのかその感情は述べられておらず、起こった出来事がまるでメモ書きのように記されている。

1794年7月27日日曜日
気温23℃、南西の風が吹く。朝の間少し雨が降っていた。国民公会はロベスピエールを極悪人として告発、逮捕状を出した。ロベスピエールは命運尽きたと悟り、拳銃自殺を図って頭に弾丸を一発撃ち込んだが死ねず。彼の弟も窓から飛び降り自殺を図り、真っ逆さまに落ちたが死ねず。

ギタールによればロベスピエールは拳銃自殺を図ったことになっているが、憲兵メダが顎を撃ち抜いたという別の記録もある。彼の銃創の真相は現在でも判然としないが、重傷を負った状態で連行されたことは確かである。また、傷の治療にあたった医師が顎の銃創について記録しているのでこれも確かである。

1794年7月28日月曜日
気温23℃、午後に小雨が降る。ロベスピエールと共謀者21名は、革命裁判所に連行。死刑宣告を受けた。彼らは、サン=トノレ通りを通って革命広場に連行。道中で民衆の罵声を浴びた。民衆は欺かれたことに激昂していた。処刑は夜7時に実行。クーデタ勃発後、24時間で決着が着いた。6万人のパリ市民虐殺を図った彼らは、自分の死がこうも早く訪れようとは思わなかっただろう。これが極悪人の運命。謀反を起こす者は、陰謀の実行直前で身を滅ぼすのが神の思し召しというのもの。野望に取り憑かれた極悪人、これがお前の傲慢さの行き着くところだ。陰謀の主犯は死に、全てが終わった。

ロベスピエールに対する深い憎しみが感じられる内容で、かなり感情的になって書かれている。ここから、ギタールがアンチ・ロベスピエールだったことが窺える。日記の興味深さは、書き手の思想が窺えるところにもある。一方、思想のフィルターが入るので、記述の偏りにも十分に注意しなければならない。

だが、正直、眠れなくなるくらいに面白い。その場にいるかのような溢れる臨場感、当時を生きた人間の生の声。ああ、そうだ。これこそが、自分が求めていた本当のフランス革命の顔。歴史書のような第三者視点ではなく、書き手の自分視点。いいぞ、もっと書いてくれ。当時の記憶を自分にも分けてくれ、と思ってしまう。

1794年12月23日火曜日
気温0℃、日中は4℃に上がる。テュイルリー宮殿の中門と背中合わせで建っていた革命裁判所が解体されている。ロベスピエールはここで民衆に演説をした。両手を天に差し伸べる彼の姿はモーセさながらだった。だが、この男は人の首を切り、虐殺し、溺死させた。なんという極悪人。

1795年1月21日水曜日
気温昨夜-9℃。厚い氷が張り、朝は小雪。北風が吹き、太陽が輝く。顔を切るような風が吹いて凍える。屋内でもモノがみんな凍る。2年前の今日、王が処刑された。この大事件を祝し、祭典が行われた。朝から砲音が鳴り響いていた。テュイルリー宮殿の玄関前の庭園に自由の女神像が置かれた。

1795年3月28日土曜日
気温8℃、南西の風が吹く。空は暗く、時折雨が降る。昨日、400〜500人の女がパンを要求して公会に押し寄せた。議長は厳粛にと言い、悪人が食糧補給の荷車を停めていると述べた。パンの入手は本当に難しい。今日は各区でパンのない人々に米が支給された。現状は少し憂慮すべきだ。

1795年5月6日水曜日
気温21℃、5月晴れで暑い。6リーブルのエキュ銀貨が70リーブルで売れた。ルイ金貨は昨日380リーブル、今日は335リーブル。

ルイ14世治世下のエキュ銀貨(6リーヴル)
ルイ15世治世下のエキュ銀貨(6リーヴル)
ルイ16世治世下のエキュ銀貨(6リーヴル)

ギタールによるこの記述から、相当なインフレが窺える。かつての貨幣がプレミアムつきで取引された。これは古代ローマでも起こった現象である。歴史は繰り返す。

1795年5月17日日曜日
気温21℃、南の風が吹く。とても暑い。昨日16日に出された法令で、王の顔が印刷された5リーブル・アッシニア及び高額のアッシニア紙幣は通用しなくなった。アッシニアは国有財産の購入ないし宝くじの購入に有効。宝くじは国有の土地、家屋等を賞品とし、1枚50リーブルで販売している。

革命期のフランスでは、アッシニアという紙幣が発行された。アッシニアとは「支払いにあてる」の意で、当時のフランスが抱えていた深刻な財政難を打開するために導入された。だが、結果は大失敗に終わり、すぐに廃止。アッシニアによってフランスは激しいインフレを引き起こし、経済は大混乱に陥った。

フランス革命によってコブレンツに亡命していた反革命派は、アッシニアの偽造品を大量に製造し、市場に投入した。経済を混乱に陥れ、革命政府を転覆させるのが彼らの狙いだった。また、反革命派はこれを自分たちの活動資金にもした。彼らはフランス本土と英国ロンドンに偽造紙幣工場を構えていた。

ギタールの日記からも読み取れるように良質な銀で造られたエキュ銀貨は重宝され、新造されたアッシニア紙幣は信用を失い、みるみるうちに下落していった。

自分も革命期のフランスにいたら、アッシニア紙幣で受け取るより、エキュ銀貨で受け取りたいと思うし、紙幣の定着は難しかったことだろう。コインを美しいと思う収集家の目線は置いといて、暴落しても地金価値の最低保障は期待できる。紙幣の場合、ただの紙切れになる。暖炉の燃料にでもするしかない。

しかも、王党派の連中によってアッシニア紙幣の偽造品が大量に刷られているという始末。そして、彼らはこの偽造紙幣を政府転覆の資金にしているという。こんな状態でどうやってこの新造された紙幣を信用すればいいのか。政府が導入したこの新貨幣の結果、財産が紙屑に変わって泣いた富裕層も大贅いた。

1795年6月8日月曜日
気温21℃、東の風が吹く。快晴、暑い。ルイ16世の子はタンプル塔で死亡。以前からこの少年は右膝と左手首にむくみがあり衰弱していた。食欲を失い発熱。昨日午前11時の報告書で容態が危険と告げられていた。保安委員会代表スヴェストルが2時15分過ぎに死亡の報告を受けたと語る。

1795年6月23日火曜日
気温17℃、東の風が吹く。暖かい。薄い雲が出ており、夕方に少し雨が降る。ちょうど6年前の今晩11時、アルトワ伯が王宮にいた際、民衆が大理石の中庭や王の部屋の窓下まで押し寄せ、罵声を発し、脅迫の上、唾を吐きかけた。アルトワ伯はこれを恐れ、「武器を取って闘え」と叫ぶ。親衛隊は持ち場を離れず、武器も取らなかった。スイス傭兵も動かない。王、王室、全廷臣はそれを見て恐れおののいた。親衛隊の不服従を見て事の異様さに気づき、ある組織の存在を察した。指導者なしにこれほど民衆が押し寄せることはあり得ない。親衛隊はその成立以来、命令に背いたことは一度もない。これこそ大革命が始まった瞬間である。革命の火蓋を切ったのは親衛隊だった。誰が彼らをそそのかした?オルレアン公とその一派と考えられている。あれから6年。その後の出来事は誰もが知る。残虐行為、殺戮、暗殺等。王位、貴族、宗教、その他全てが覆された。そして今、物資不足が深刻になっている。

パン1斤14〜15フラン。小麦粉1袋5000〜6000フラン。牛肉500グラム8〜9フラン。卵1個15ソル。薪1車200リーブル。炭1袋100リーヴル。靴60リーヴル。長靴下50〜60リーヴル。洋服1着600、700、900リーヴル。帽子80〜100リーヴル。さくらんぼ500グラム40ソル。大粒エンドウ1/6ボワソ3リーヴル〜3リーヴル10ソル。大粒ソラマメ1/16ボワソ50ソル。灯油0.5キロ8リーヴル。ルイ金貨は、1週間前から1000リーヴル。銀8オンス1600リーヴル。100ソル大型コイン30〜35リーヴル。全てが異常な高値。このような貧窮はフランスでも、地球のどんな場所でも起きたことはない。人々は目に見えて衰弱しており、栄養不足でろくに立ってもいられない状態。

ルイ16世の息子(ルイ=シャルル)は6月8日に死亡。その姉(マリー=テレーズ)はタンプル塔から釈放。彼女はバスティーユ占拠記念日の7月14日にスペインの身寄りのもとに送られる予定で、二人の侍女が付き添うことになった。

フランス革命期の5ソル青銅貨

1795年11月20日金曜日
気温7℃、曇り空、夜に雨。バター1ポンド100リーヴル。塩15リーヴル。薪1車1500リーブル。3月に50ソルだったジャガイモが160リーヴル。何もかも、この世が始まって以来見たこともない馬鹿な高値。背筋が寒くなる。一体どうなる。行く末の見当もつかない。どうしようもない共和国!

ルイ16世治世下の1/2ソル青銅貨

1795年11月28日土曜日
南西の風が吹く。終日雨、暗くて鬱陶しい。パン1斤55リーヴル。バター1ポンド100リーヴル。ジャガイモ100リーヴル。ワイン1瓶40リーヴル。これでどうやってやっていけようか!

物価があまりに不安定であることが手に取るように分かる。ギタールの悲痛な声が聞こえてくる。

ルイ16世治世下の2ソル青銅貨

1795年12月6日日曜日
気温5℃、西の風が吹く。昨夜は雨。一日中暗く陰鬱な空。

パリ及びフランスの悲惨な現実一覧。
株式取引所の昨日の付値。

ルイ金貨4,000リーヴル。6リーヴル・エキュ銀貨1,022リーブル20ソル。コーヒー500グラム250リーヴル。マルセイユ石鹼500グラム170リーヴル。つまり、シャツ1枚を洗うのに12~15リーヴル。ハンカチ、木綿の帽子、布巾1枚を洗うのに50ソルかかる。薪1車配達料込みで2,300リーヴル。炭1袋300リーヴル。パン1斤50リーヴル。ワイン1瓶40リーヴル。ジャガイモ1ボワソ200~220リーヴル。バター1ポンド100リーヴル。牛肉20~22リーヴル。水1荷3~5リーヴル。靴1足600~700リーヴル。木靴100リーヴル。

要するに全て法外な値段。もう秩序なんてどこにもない。みんな好き勝手な値段を付けて売っている。公会はこの事態に対し何の措置も取らない。まるでこの世の終わりのようだ。飢えと寒さと物資不足で、誰も死に追い詰められることだろう。

なんてどうしようない共和国!一番の問題は、いつ、どうやって、この状況の収拾がつくのか、全くあてがないことだ。みんな空腹で死にそうである。人間にはパンを腹いっぱい食べる自由さえないのか?一日にパンを3/4斤しか食べられないなんてことがあっていいのか?

ルイ16世治世下の30ソル銀貨

1796年2月5日金曜日
気温5℃、南と西の双方から風が吹く。昨夜は悪天候で、朝9時まで豪雨。その後は太陽がのぞいた。炭1袋700リーヴル。薪1車配達料込みで3,000リーヴル。ルイ金貨は5,500リーヴル。銀1マールは昨日10,000リーヴル。ジャガイモ1ボワソー220リーヴル。ひどい値段だよ!

フランス革命期の5サンチーム青銅貨

1796年2月9日火曜日
気温9℃、南西の風。終日雨。何にもかも悲しく、ぞっとするほど高い。誰もが苦悩している。

1796年2月26日水曜日
気温7℃、西の風。一日陽が照る快晴。パンが来るはずだから駅馬車が昨日着いたかどうか見に行く。駅馬車はもう予定通りには着かない。もう少し待たねばならない。株式取引所午前と午後のぞいてみた。ルイ金貨は6,850リーヴル。6リーヴル・エキュ銀貨で1ルイなら6,800リーヴル。銀塊ないし銀1マールは13,100リーヴル。

1795年5月6日時点で335リーブルだったルイ金貨が、たった1年で約20倍の6,850リーヴルに高騰。当時の混乱ぶりと経済破綻が目に見えて分かる。

1796年5月15日日曜日
精霊降臨の大祝日。気温17℃、西ないし南西の風が吹く。朝に小雨、午後に二度ほど雨が降る。

ギタールの日記は、この日付を最後に終わっている。ここで終わりなのか?もっと見せてくれよ、キミのフランス革命を!彼が見た生のフランス革命をもっと知りたかったが致し方ない。ギタールはだいぶ前から回虫に悩まされており、頭痛や体調不良を訴えていた。

ギタールは最初こそ共和国の誕生を歓迎していたものの、その後の腐敗ぶりに頭を悩まし、どうしようもない共和国!と悲痛の声を上げる。日記からは彼がフランス革命の勃発から数年で没落していったことも分かる。庶民の老人が残した日記。だが、これこそが多くの人の目に写っていたフランス革命だった。

自分たちの貧しさの原因は王侯貴族にあるとして国王と王族を処刑台に送ったフランス国民。王さえ排除すれば全てが変わる。人々はそう信じてやまなかった。こうして共和国として生まれ変わったフランス。だが、王を失った途端フランスは求心力を失う。統制が利かなくなり、より悲惨な状況に陥っていく。

この日記は、フランス革命期のパリにいたNicolas Célestin Guittard de Floriban(ニコラ・セレスタン・ギタール・ド・フロリバン)によって書かれた。ギタールの日記は彼の没後、出身地シャンパーニュ州エヴェルニクール村に送られた。その後、アルデンヌ県ルテルの義兄ウージェーヌ・ラカイュの手に渡った。

5代によって日記は継承され、激しい戦火も奇跡的に逃れた。最終的に子孫のF・ラカイュが1930年に亡くなる直前、Raymond Aubert(レイモン・オベール)に資料を託した。日記内から読み取れるギタール自身の情報によれば、彼は1724年9月3日にシャンパーニュ州エヴェルニクールに生まれた。そして、晩年はプロヴィズー・プレスノワ・エヴェルニクール聖堂区に住んでいた。身長は172cm、丸顔で額が広く、鼻は鷲鼻だそうだ。

名前に貴族がつける「de」冠しているが、これは自称で、貴族ではなく、第三身分と呼ばれる市民階層である。当時、第三身分はフランスの人口2400万人のうち98%を占めた。また、ギタールは年金で暮らす老人ゆえ、フランス革命の動乱にはダイレクトに振り回された立場でもあった。彼は株式取引所をいつも気にしており、日記には何度も当時の貨幣事情が登場する。当初24ルーヴルだったはずのルイ金貨は、1796年2月23日には8,600リーヴルにまで高騰する。

ギタールの日記はオベールが編纂し『Journal d′un bourgeois de Paris sous la Révolution(革命期パリのブルジョワの日記)』というタイトルで出版された。フランス革命勃発後の1791〜1796年までの出来事が綴られている。今回は日記の一部を抜粋し、時系列順で紹介した。

フランス革命期の5デキシーム黄銅貨


Shelk🦋

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