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アンティークコインの世界 | 神聖ローマ帝国のターレル銀貨


今回はタイトルの通り、神聖ローマ帝国で発行されたターレル銀貨を紹介していく。神聖ローマ帝国は、複雑な国家だったと言える。帝国と言えど、皇帝の権力が絶対的なものではなく、その下にいる有力貴族の諸侯たちが力を握っていた。そのため、皇帝は頂点に位置したものの、諸侯の協力なくしては、帝国を維持できない状態にあった。この点はかつての古代ローマ帝国の皇帝が、有力貴族らで構成された元老院議員の協力なしに帝国を維持し得なかった点に似ていると言えるかもしれない。とはいえ、神聖ローマ帝国の皇帝はローマ帝国の皇帝ほどの権力は持ち合わせていなかった。また、その複雑さで言えば、神聖ローマ帝国は呼称さえも不安定な国家であり、名前が時代によって次々に変わっていく。日本ではこれらを総称して便宜上「神聖ローマ帝国」と呼ぶ傾向にあるが、厳密にはそれは13世紀に限った呼び名だった。下記、神聖ローマ帝国が時代によって、どのように自国の名を公式文書で名乗っていたのかを列挙する。

10世紀〜ローマ帝国
11世紀〜帝国
12世紀〜神聖帝国
13世紀〜神聖ローマ帝国
14世紀〜ドイツ国民の神聖ローマ帝国
1804年〜 ローマ・ドイツ帝国
1806年〜 ドイツ帝国


といった具合で、当初は初代ローマ皇帝アウグストゥスによって開始されたローマ帝国の名をそのまま名乗っていた。彼らの意識としては、自分たちこそがかつての大帝国ローマの継承者という自負があったようだ。神聖ローマ帝国という呼称は13世紀から始まり、続く14世紀ではドイツ国民のローマ帝国と自称するようになり、「ドイツ国民の」という文言が付け加えられた。この特殊な呼び名は、19世紀まで続いた。

これから紹介するコインは、まだ打刻式によるハンマーコインのため、若干刻印がずれているところが古風で趣があって良い。とはいえ、これらはかなり中央に正確に打たれている方であり、尚且つ未使用レベルの状態を保っている。観ていて非常に胸が高鳴る美しいコインたちである。何より直径40mmを超える、そのボリューム感に胸を打たれる。大迫力の存在感は貨幣コレクターであれば、誰もが目を惹かれること間違いなしだろう。

ハンブルク自由都市紋章/双頭の鷲

図柄表:ハンブルク自由都市紋章 
図柄裏:双頭の鷲 
発行地:神聖ローマ帝国ハンブルク自由市造幣所
発行年:1735年
彫刻師:Johann Hinrich Löwe(ヨハン・ハインリッヒ・ローヴェ)
銘文表:MONET NOV CIVITAT HAMBVRG I H L(ハンブルク自由都市の新貨幣 彫刻師ヨハン・ハインリッヒ・ローヴェ )
銘文裏:CAROLVS VI D G ROM IMP SEMP AVGVST 1735(神の恩寵を受けし者カール6世 神聖ローマ帝国の最高軍司令官にして常に尊厳なる者 西暦1735年)
額面:1ターレル
材質:銀
直径:43.4mm 
重量:29.2g 
分類:KM 386、Dav 2283


ハンブルク自由都市で発行されたターレル銀貨。表側にハンブルク自由都市の紋章、裏側に神聖ローマ帝国のシンボルである双頭の鷲を描いている。三つの塔がそびえる城門は、ハンブルクのトレードマークだった。ターラー銀貨とも呼ばれるこの種の大型銀貨は、その迫力と美しさから絶大な人気を誇るコインのひとつである。

銘文中に記されている本貨発行時の神聖ローマ皇帝カール6世(在位:1685年10月1日〜1740年10月20日)は、同じく神聖ローマ皇帝のレオポルド1世(1640年6月9日〜1705年5月5日)の第二子であり、ハプスブルク家では男系最後の皇帝だった。スペイン王位継承戦争ではイギリスの後ろ盾によって継承者候補として擁立されるも、兄ヨーゼフ1世が他界したため、彼が支配するオーストリアと帝位を継承し、スペインの王位は最終的に放棄するに至った。帝位継承によって彼は、帝国の支配下にあったネーデルランド、ナポリ、シチリアも獲得した。加えて、オスマン・トルコとの戦争では見事勝利を収め、さらなる領土を手にした。だが、ポーランド王位継承戦争で敗北を喫し、獲得した領土の一部を失った。最期は趣味の狩猟の最中に腹痛を訴えて倒れ、その後、病床に伏して1740年に帰らぬ人となった。彼の子女の一人に、かの有名な女帝マリア・テレジアがいる。

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本貨の発行都市ハンブルクはドイツ北部の商業都市であり、808年にカール大帝によって建設された。1510年には神聖ローマ帝国の自由都市に定められたため、貨幣の上に神聖ローマ帝国のシンボルである双頭の鷲を描くようになった。

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また、ハンブルクは三つの塔が並ぶ城門をシンボルとし、貨幣の上に刻んだ。その後、ナポレオン1世の台頭によってフランスの手中に入り、一時は占領地となった。1813年に解放され、自由都市として再興したものの、貨幣製造は既に衰退しており、本貨のような美しく魅力的な貨幣は次第に姿を消していった。

フランツ1世/双頭の鷲

図柄表:フランツ1世肖像
図柄裏:双頭の鷲
発行地:神聖ローマ帝国アウグスブルク自由都市造幣所
発行年:1760年
銘文表:FRANSISCUS I D G ROM IMP SEMP AUG(神の恩寵を受けしフランツ1世 神聖ローマ帝国 最高軍司令官 常に尊厳なる者)
銘文裏:AUGUSTA VINDELIC AD NORM CONVENT 1760(アウグスブルク自由都市の標準協商銀貨 1760年)
エッジ:リーフタイプ・セキュリティエッジ
額面:1ターレル
材質:銀(Sv833)
直径:40.0mm
重量:28.0g
分類:KM 174、Forster 609、Davenport 1926


神聖ローマ帝国アウグスブルク自由都市で1760年に発行されたターレル銀貨。表側に時の神聖ローマ皇帝フランツ1世(在位:1708年12月8日〜1765年8月18日)の肖像、裏側に帝国のシンボルである双頭の鷲を刻んでいる。

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双頭の鷲は剣と宝珠を脚で掴み、王冠を戴いている。直径40mmを超える大型銀貨で迫力がある上、美麗な彫刻が打たれた見事な一枚である。

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フランツ1世は陽気な性格で、かの有名な女帝マリア・テレジアの父カール6世のお気に入りの一人だった。結果、1723年8月には、マリア・テレジアとの婚約が決まった。又従兄妹の血縁にあった二人の婚姻によって誕生したのが、ハプスブルク家の派生家系ロートリンゲン家だった。この政略婚によってフランツ1世は神聖ローマ皇帝の地位を手にしたが、マリア・テレジアは夫に実権は与えなかったため、フランツは飾りの無能な皇帝となった。最期はオーストリアの都市インスブルックで喜劇とバレエを観賞した帰りに突如体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。マリア・テレジアは夫の死を深く悲しみ、自身が他界するまで黒い喪服を着用し続けた。余談だが、フランツ1世は少年時代、自然科学に興味を持って勉学に励んだが、文学には全く興味を示さず、当時のエリートの教養のひとつだったラテン語の成績などはあまり良くなかった。

神聖ローマ帝国は1753年にバイエルン王国との間に貨幣協商条約を締結し、協商ターレル銀貨を発行するようになった。本貨もその協商ターレルのひとつである。この協商によってターレル銀貨の重量は28.0gに定められ、銀の品位は約833/1000とされた。純銀量に換算すると23.3gになり、従来の120クロイツァーに相当した。また、銘文中に登場する「D G」とは「DEI GRATIA(デイ・グラティア)」の略称で、これは「神の恩寵による」を意味するラテン語である。9世紀以降、西洋貨幣に頻繁に登場するようになる。この文言の使用は特にイギリスが有名であり、最初にイギリス王で使用したのはエドワード1世で1279年のことだった。


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図柄表:レーゲンスブルクの都市景観
図柄裏:ヨーゼフ2世
発行地:神聖ローマ帝国自由都市景レーゲンスブルク造幣局
発行年:1766年
銘文表:MONETA REIP RATISPON X ST EINE F C M 1766(自由都市レーゲンスブルクの通貨 1766年)
銘文裏:IOSEPHUS II D G ROM IMP SEMP AUG(神の恩寵によるヨーゼフ2世 ローマ帝国の最高軍司令官 常に尊厳なる者)
額面:1ターレル
材質:銀
直径:41.2×2.8mm
重量:28.6g
分類:KM406、D2622


ヨーゼフ2世の治世に神聖ローマ帝国の自由都市レーゲンスブルクで発行されたターレル銀貨。レーゲンスブルクの美しき都市景観、神聖ローマ帝国の皇帝ヨーゼフ2世(在位:1765〜1790年)の肖像を描いている。ヨーゼフ2世は、先述したフランツ1世とマリア・テレジアの長男として誕生した。かの有名な王女マリー・アントワネットの実兄にあたる。

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本貨の見どころは何と言っても、細かく美麗な都市景観の描写である。直径40mmを超える大型銀貨に打ち込まれた都市景観は、圧倒的な迫力を持つ。都市を流れる川にはボートが浮かび、街を結ぶ巨大な橋の先には教会が見える。当時のレーゲンスブルクの都市の様子を記録する視覚資料であり、私たちを彼らの時代にタイムスリップさせてくれるかのような錯覚に陥る。

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ヨーゼフ2世は、当時勢力を増していた貴族と教会の弱体化を狙った。代わりに商業及び工業を発展させることで自身の王権強化を図ろうとするが、思うような成果が上げられないままフランス革命が勃発する。革命の勢いが収まらない動乱の中、解決の糸口を見つけられないまま病に倒れ、他界した。

ヨーゼフ2世の最も著名な政策としては、農奴解放令が挙げられる。これは貴族ではなく、農民の支配を皇帝の管轄下に置くことを狙ったもだった。当時のヨーロッパ諸国では、最も革命的な試みのひとつだった。とはいえ、全ての利権を皇帝に集約させるような政策は周囲の反感を買っており、彼の皇帝としての評価は総じて低い。偉大なる母にしての女帝のマリア・テレジアほどの業績は挙げられず、市民からの人気も低かった。

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以上、今回は神聖ローマ帝国下で発行されたターレル銀貨を紹介した。ターラー銀貨の名でも知られる本貨は、かつてより貨幣コレクターを魅了してきた。当然、私もそのうちの一人であり、熱心な愛好者である。アンティークコインに魅了された当初から、ターレル銀貨の魅力の虜となった。コイン研究の目的は考古学研究の一環だったため、古代コインがきっかけであり、また研究対象ではあったものの、やはりターレル銀貨が持つ魅力には抗えないものがあった。

ひとつ幸運だったのは、古代コイン、もっと言えば古代ギリシア・ローマコインに記された銘文から当時の歴史を読み取る研究をしていたため、神聖ローマ帝国及び西洋諸国で発行されたコインの銘文が何とか判読できる状態にあった。どういうことかと言うと、中世及び近代の西洋貨幣はラテン語を銘文に採用していたため、古代ローマコインと使用している言語が同じなのである。これによって初めて観るコインでも、仮に知らない皇帝の肖像であっても、刻印された文字を判読すれば、ある程度のことが分かり、また、その銘文をもとに調べものをすれば、大抵の場合、そのコインの情報源にアクセスできるのである。それゆえ、古代コインの研究は、近代西洋貨幣を学ぶ上で全く無駄にならない。こうした世界の繋がり、歴史の繋がりというものに惹かれてやまない。この連続する法則性に気づいた時、歴史の世界の門を叩き、足を踏み入れて良かったと強く実感する。

*掲載画像は筆者私物を撮影。スタジオにて自然光に近い環境をつくり、撮影を行った。色領域はより色領域の範囲がより広いAdobe RGBに設定し、RGBモニターを使用して現像処理を行った。限りなく肉眼で観た印象に近い絵づくりを心みたが、それでもこれらのコインの魅力は写真では全く伝わり切らない。


Shelk 詩瑠久🦋

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