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変わらない自分と救われるpsykhē〜カネコアヤノ『タオルケットは穏やかな』

4枚目の境地

1月25日にリリースされたカネコアヤノの新アルバム『タオルケットは穏やかな』はその題からイメージしていたぬくぬくとした空気感もあるが、全体を通してロックミュージックとしてのタフな強さが印象深い。そして演奏陣を固めてからの『祝祭』以降3作とはやや異なる雰囲気を纏う1作に思えた。


2018年からバンドでドラムを担当していたBob(HAPPY)がメンバーを離れ、本作では新たに2名のドラマー(照沼光星、Hikari Sakashita)を迎えたことでサウンド面は大きく変化。またフェスやツアーで大きなステージを経験してきたこともあってか、彼女の歌声は格別のスケール感を誇るようになっている。


歌詞の内容にも変化を感じ取れた。『祝祭』は生き生きとした暮らしの風景と本能的な愛を謳い、『燦々』ではより生活に光をあて安心と不安に揺れる様を描いた。そして前作『よすが』はコロナ禍の苦しさを刻み、生きることを切に祈る1枚だった。そして本作は自分の心と再び向き合う境地に立つ。


愛着のあるクタクタの毛布をずっと持っていたかったこと。それを纏うとなぜか安心できたこと。そんな思い出を想起する『タオルケットは穏やかな』という題。それはつまり何かに対する怯えや離れがたさとセットでもある。次項からは本作が捉えようとしたその心の内側について考えていきたい。



変わらない自分の受容

アルバムは昨年4月にシングルリリースされていた「わたしたちへ」がオープニングを飾る。この曲は収録にあたって再レコーディングされており、原曲よりも1分ほど長尺だ。インパクトがあるのは最後に施された神秘的な轟音だろう。後光が射しているかのように眩しく、全てを包み込むように温かなノイズ。アルバムがこれから進んでいく道筋を照らしているように響き渡る。

シングルとして聴いた時も思ったが、この曲は『よすが』までの曲とは描写の面で特に一線を画す。《誰よりも退屈に慣れている》、《目の奥はいつも何か信じているようでそらせない》、そんな《歩き方さえ羨ましい》あの子を描写することにAメロを捧げている点が特別なのだ。日常の場面から始まることが多いカネコアヤノ楽曲にしてはとても俯瞰的なタッチだろう。

わたしでいるために
心の隅の話をしよう
変わりたい変われない
変わりたい代わりがいない
わたしたち
カネコアヤノ「わたしたちへ」より

そしてサビで”わたし"へと描写の中心が変わる。この「変わりたい/変われないわたし」「代わりがいないわたしたち」というモチーフこそ、アルバムに通奏しているテーマである。「わたしたちへ」では他者への眼差しをまず描くことにより、自分の心の隅で見つめた変わりたいという思いを鮮やかに際立たせているのだ。ラストの長い後奏がその切実さを強く胸に残していく。


変わりたいという思いは、本作のサウンド面でのアプローチにも示されている。「やさしいギター」の軽快にワウを効かせたギターカッティングや、「予感」において突然挟まれるハードロックのような激しいアレンジ。時に小さく、時に大きく、随所に予想外でユニークなアレンジが施されている。演奏メンバーが変わったからこそ、全体の変化にも恐れず踏み切っている。

しかし歌っていることに目を向けると、例えば「やさしいギター」では《優しさばかりが愛か 分からずにいたい》と願い、「季節の果物」では《優しくいたい/海にはなりたくない》と高らかに歌う。「気分」には《ぼくはぼくでしかないね/しかたがないね》と書きつけ、自分が自分のままで今いることを受容しているように思う。それこそが《代わりがいない わたしたち》だと。


アルバムの最後を飾る「もしも」は、打ち込みのような無機質なリズムと隙間の多いペタッとした演奏に乗った、少し脱力するような1曲。最後はカネコアヤノが歌わず、バンドメンバーの歌声のみを残して終わっていくという非常にトリッキーな1曲だ。しかし同時にクロージングナンバーにも相応しく「わたしたちへ」と美しく対を成しアルバムの到着点としてこの上ない。

変わることと変わらずにいること
何から食べるか迷うのと同じで
タイミングや風向きの違いさ
胸に秘めてる 僕を秘めてる
カネコアヤノ「もしも」より

変わらないという意思は変われないという諦めのようにも受け取られかねない。しかし実際のところは「もしも」で歌われている通り、気まぐれで常に移ろい続けているのが「変わりたい/変われないわたし」だ。歌の終わり際、自分以外の声でメロディを繰り返すことでカネコアヤノのパーソナルな想いを超えた普遍的な概念として、嘘のない心の内側がこちらへ届いてくる。




psykhēを救うということ

風邪をひいて独りになった日には
今日この町で一番可哀想なのは僕だ、と思う
救われてく僕のpsykhē
カネコアヤノ「月明かり」より

プシュケ、と発音される「psykhē」という言葉。古代ギリシャ語では"息"を意味し、様々な概念を包括してきた単語で適切な日本語訳は難しい。例えば新約聖書や哲学者ルターの著書では"いのち"と訳されている。それもこの歌詞の文脈上にはしっくり来るが個人的には"こころ"という解釈を取りたい。「わたしたちへ」の《心の隅》というワードとも呼応しているように思う。


精神科医/心理学者のユングは意識と無意識を全て含めた”こころ“という意味でpsykhēという言葉を用いた。表に出る喜怒哀楽といった意識は勿論、普段は存在すら感知できない無意識を指す概念だ。ユング研究者の渡辺学はユングを論じる中で「無意識は意識を抑圧し、他方で無意識は意識を呑み込み懸依しようとする。」と無意識が意識に及ぼす影響力について記した。(※)

足を暗闇にとられそうだ
どうか今日この町で腕を無理矢理にでも
そうさ ひっぱってくれ
救われてく僕のpsykhē
カネコアヤノ「月明かり」より

「月明かり」はメロウなサウンドに不思議なノイズが散りばめられ、夢の中を揺蕩っているような心地になる。アルバム屈指の穏やかな1曲だが歌詞では静かに不安な心情を吐露し、終盤のアレンジはどこか不穏さもある。無意識下に堆積した日々の混沌から、意識の表層へ不意に析出してくる説明のできない不安を夜に浮かべていくような、そんな気分を楽曲の中に込めている。

表向きの自分がどれだけニコニコしていようと、無意識に押し込めた苦しさは不意に顔を出してくるものだ。それは漠然とした世界への怯えや、理由のない別離不安に姿を変えてやってくる。カネコアヤノは表向きの自分だけでなく、表裏問わず自分でも気づけていない自分まで癒される感覚について歌ってくれる。psykhēという言葉選びの意図は不明だが、そう解釈してみた。

僕もあなたも許されてる
真夏 夜の散歩 月明かりとか
カネコアヤノ「月明かり」より

何に《救われてく》のか、何に《許されてる》のか。具体的に示す言葉はない。《菜の花が眩しい》という実感だったり、綺麗な月明かりだったり、救いや許しもまた不安と同様に説明できないものとして描かれる。しかしだからこそ無意識へ届く。理屈を超えた何かに感銘を受ける瞬間こそ、”こころ“の全てを包む癒しをくれる。"こころ"を内側から解してくれるはずだ。




このように書くとシリアスなアルバムかと思われるかもしれないが全編通して溌剌としたエネルギーが湧く曲ばかり。聴いていると晴れやかさが胸いっぱいに広がっていくはず。そして変わりたくても変われない自己嫌悪や突如現れる不安から身を守ってくれる頼もしさにふと気づく。というより、そんな気分に陥る自分ごといつの間にか受容してくれる、というべきだろうか。知らぬ間に無意識にまで沁み渡ってくる何気ないのに慈悲深い歌たち。お気に入りのタオルケットのような、その穏やかさに守られる感覚になるのだ。

眠れない 無理に寝ない
こうして誰かを想ったりして
明日の愛を想像する
カネコアヤノ「眠れない」より
全てへ捧ぐ愛はない
あなたと季節の果物をわけあう愛から
カネコアヤノ「季節の果物」より

そんな音楽を生み出せるのは、やはり愛を信じることが根底にあるシンガーだからだろうか。聴いての通り、どでかいメッセージを打ち上げる博愛主義者というわけではない。ただ個人的な愛を抱きしめ歌った言葉が聴き手にとっての大切なものになっていくだけなのだ。しかし個人的であればあるほどその表現は濃くなり、彼女の音楽は広く深く求められていく。このアルバムはそんなカネコアヤノの表現者としての芯をしっかり見つめ、丁寧に研ぎ直した1枚になっている。揺れる心と対峙したその先、滾る愛は変わらない。


(※)渡辺学「ユングにおける心と体験世界 : 自我と非我との 相互関係をめぐって


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