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[後編]僕らが言ってきた“メンヘラ”って何なのか…クリープハイプ『死ぬまで一生愛されてると思ってたよ』10周年に寄せて

※本記事は後編です。前編を先に読んで頂けると、この文章の意図が伝わりやすいと思います。
[前編]


"メンヘラ"と音楽

音楽に向けられる“メンヘラ”という形容。時にアーティストが生き辛さを綴ること自体が"メンヘラ"と扱われる。それを聴くリスナーも"メンヘラ"であるとされるケースはとても多い。クリープハイプは尾崎世界観(Vo/Gt)の伝えたい想いが誠実で切実であればあるほど、このような形容や受容のされ方をしてきた。本項ではこの10年間にフォーカスし、"メンヘラ"が音楽でどう扱われてきたかを記していきたい。

歌詞の中で“メンヘラ”を扱う楽曲はどうだろう。歌ねっとの検索を用いると、歌詞に“メンヘラ”が登場する曲は2013年頃から増え始めていることが分かる。Charisma.comは「メンヘラブス」という題で激しくスタンスを糾弾し、キュウソネコカミは「メンヘラちゃん」はかつての恋人との体験をキャッチーに綴った。このように非"メンヘラ"側から描く楽曲がある一方、さめざめは「We Are メンヘラクソビッチ」という楽曲をはじめとして“メンヘラ”側の視点から多く描き、ミオヤマザキは2013年の活動初期から一貫して“メンヘラ”を題材にした楽曲を扱ってきており、バンドのコンセプトとも言える。また下の記事ではビジュアル系バンドが2010年代に入り、「メンヘラ」「病み」を直接的に扱い始めたことが示されている(ファンとバンドの関係性のメタファーという意味合いも強そうだ)。


この10年、頻繁に"メンヘラ"的であると扱われきたアーティストたちはむしろ直接的に”メンヘラ"を扱ったりはしてこなかった。アーバンギャルドは常に批評的かつ観察対象としてその生態を時代とともに描いてきたし、神聖かまってちゃんは"病んでいる"状態が平常であるとして描いてきた。また大森靖子はその強靭な芯が通った姿勢は常に誤解されてきたが、近年はそういった揶揄を打ち返すステイトメントや歌詞を書き続けている。またあいみょんが「貴方解剖純愛歌~死ね~」というこのほぼ1曲だけで"メンヘラ"のイメージを託されてしまうなど、こういった過激とされる表現の側面をわずかに覗かせるだけでも"メンヘラ"と扱われ始めたのが2010年代だ。

2010年代も中頃に入ると、クリープハイプの影響を受けたロックバンドたちが台頭するようになる。My Hair is BadyonigeマカロニえんぴつSaucy Dog…彼らの楽曲で特に恋愛に絡むものはすべからく“メンヘラ”認定を受けてきたように思う。それぞれに個性の立ったバンドだが、恋/愛/性の移ろいを多く描く繊細な一面が定着しつつあった“メンヘラ”というキャッチーなワードに回収されていったのだ。back numberやRADWIMPSなど恋愛を中心に描くバンドはこれまでもいたが、彼らの歌にある生活感溢れる場面展開やリアリティある状況やアイテムの引用など新鮮なタッチが印象づいたのだと思う。

前編に書いたエモいコンテンツの増加が著しかった2010年代終盤から2020年代頭にかけては、TikTokやバイラルチャートを発信源とする、多彩な”メンヘラ“とされる心情を描く楽曲が届けられるようになる。りりあ。浮気されてもまだ好きって曲。」、泣き虫大迷惑星。」、堂村瑠羽の諸楽曲、これらの楽曲は歌っている方向性や質感がかなり感傷的な面にチューニングがされている。ハイファイでポップなイラストレーションと"夜"のイメージといった統一感も含めSNS世代のサウンドトラックとして豊かに機能している。自身の生き辛さを彩るBGMとして「この曲、自分のことを歌っている」という共感をかなりの精度で喚起するからこそ、広く享受されているのだと思う。


2000年代前後はART-SCHOOLSyrup16gがバンドシーンでは"メンヘラ"の代表格として語られていた。アートは木下理樹(Vo/Gt)が偏愛する文学や映画を通して耽美で退廃的な病みを描き、シロップは「空をなくす」(ソラナックス)や「デイパス」(デパス)など抗不安薬の名前をもじった曲を作ってきた。これらゼロ年代の楽曲と比べるとやはり近年の“メンヘラ”的とされる楽曲は描写がかなり日常的かつ普遍的なものになっている。女性アーティストでは椎名林檎鬼束ちひろ、そしてCoccoが代表格のように語られてきたが、生き様と美学を真摯に歌うという点が共通項なだけなように思う。"メンヘラ"という言葉が発見されてから後付けで括られた先人アーティストはラベリングされたことによって、真価が見えにくくされているようで勿体なく感じてしまう。

長編の映画や小説などと違い、数分間で1つの世界を堪能できる音楽表現。サブスクの台頭で最新曲へのアクセスは簡便になり、SNSによってその楽曲を拡散し共有することが当たり前になったのがこの10年だ。感想として求められるのは〈一言で分かりやすいもの〉かつ〈共感を得られるもの〉。そんな環境において"メンヘラ"というワードは少し捻じれた感性や複雑な恋愛感情を形容するためにあまりにも便利だった。

"メンヘラ"という言葉がカジュアルに使われる形容の常套句になったからこそ、”メンヘラ“っぽいから嫌いも成立するし、”メンヘラ“っぽいから好きも成立するようになる。音楽に対する"メンヘラ"という形容は発している側が悪意や嫌悪を込めているとも限らず、単に共感したという意味である可能性も高いのだ。しかし一言でそう片付けられてしまうことに勝手にモヤモヤした気持ちを抱えてしまうのも事実だ。”メンヘラ”を使う側/使わない側の断絶は深いと、かつて使ってしまっていた側からすると強く思う。


"メンヘラ"にまつわる議論

この記事において、"メンヘラ"という言葉を用いるリスクについて興味深い言及があった。精神に影響するストレス因に対し、"メンヘラ"という言葉を用いることが建設的な解決法を遠ざけているのではないか、という文脈だ。

「コミュ障」にしても「メンヘラ」にしても、その言葉が生まれた背景や厳密な意味を知らないのに、簡単に他称・自称することができてしまう。それは、それぞれの言葉に一定のイメージがあり、他人や自分自身をそのイメージにはめて説明している状況、とはいえないか。自分自身の独自の経験や感じたことを重視するというよりも、強烈なインパクトのある定型的なストーリーを含み持つメンタルヘルス・スラングに引き寄せられ、むしろ個人の経験がその言葉に回収されていってしまう。

また一方、メンヘラの当事者にインタビューを行い研究を行ったこの論文においてはこのような記述がある。※( )内は捕捉した説明。

確かに、「メンヘラ」のようなMHS(メンタルヘルススラング)、それに限らず精神疾患に関わるような言説は、その人の人生を「病める主体」のものとして一つの方向に方向付けてしまう恐れもある。しかしながらそれは同時に、無秩序に見える自身の人生に一つの方向性を与えるもの、或いは既に固定された状態で存在している自身のドミナント・ストーリー(型にはまった物語)にオルタナティブな視点として立ち現れてくるものにもなり得るだろう。

どちらの文も頷く部分ばかりだった。"メンヘラ"という言葉が持つこの両側面は注目すべき点だろう。問題に名前をつける、それはたとえ"メンヘラ"という曖昧な概念であっても自身の抱える問題を外在化すること(ナラティブ・アプローチ)に繋がり、結果として悩みを客観視できるきっかけになり得る。しかしその段階に至らなければ、自分の抱える生き辛さをなんとなく"メンヘラ"と名付けておしまいである。

おしまい、で済むのであればいいのだが時に重要な背景や疾患の存在を見逃しかねない。そのリスクを防ぐための一助として医療機関は活用できると思うのだが、現実には通院の意志がない限りは難しいのが事実だ。そして医療機関を介さないまま病名を自称したり、医療知識のない謎の知識人につけてもらった診断名を正しいと信じてやまないような人を生んでしまう。カジュアルなものかもしれないし、決して軽視できないかもしれない。本来"メンヘラ"とは固有の生きづらさであるはずで、容易にラベリングできるものではないのだ。

日々の診療でも強く思う。辛く沈んだ気持ちの中でも救いになるような大好きな何かがあると話す人もいるし、うまくいかないことを語る時間の中で少しだけ前を向けた瞬間も語ってくれることもある。心は常に一定の場所に留まらず、そしてその不調と好調はグラデーションのようになっていると個人的には思う。その瞬間のその感情だけで自分に気安くレッテルを貼るのは、ちょっと待ってみたほうが良いように思うのだ。

そして他人が気軽に使う"メンヘラ”は当然、もっと慎重になるべきだと思う。その関係、その状態について向き合うのをやめた時、最も近い場所にある言葉として選び取られる"メンヘラ"が含んだ確かな暴力性と加害性。”メンヘラ“があまりにも一般化しすぎた以上、その危うさに目を向けることも難儀なことだが、その言葉を発する一歩手前で踏みとどまれはしないか、と思っている。勝手に他人の生き辛さに名前をつけ、勝手に喋ることを妙なことだと思わないか、と過去の自分にも問いたい。過去ツイートを貼り晒したこの身から、猛省を経て書いたこの文章を通して最も伝えたい部分はここだ。





2022年4月18日、クリープハイプは『死ぬまで一生愛されてるよ』の初回盤にボーナストラックとして収録されていた「ex.ダーリン」をリテイクして配信リリースした。先日公開された、松居大悟監督の映画「ちょっと思い出しただけ」でも重要なシーンで用いられた弾き語りバージョン、そしてヨルシカのn-bunaが編曲を担当したバンドバージョンの同時リリースだ。インディーズ時代から長く愛されたこの楽曲は、別れた恋人同士がそれぞれを思い出す姿が描かれる。圧倒的な静謐さと胸が引きちぎれそうになる感傷は、どちらのテイクにも強く刻まれている。

忘れがたい思い出が他の人の心を突き刺していく、そんなソングライティングの美しさがこの曲には息づいていると思う。"メンヘラ"という言葉を置くのは、そんな音楽を聴いた時の大事な感情が零れ落ちていくような気がする。面倒でも、語彙がなくても、何か言いたいなら粘り強く言葉をひねり出そうと試みたほうがきっと音楽を大切にできるのではないかと思ってしまう。少なくとも僕はそうし続けていきたい。自分の中に芽生えた気持ちや覚えた感情をインターネットスラングや安い構文に絡めとられそうになる瞬間に、強い意志で抗い続けたい。


※本稿はシリーズ記事「2012 to 2022」と「メンタルヘルスとポップカルチャー」の合同記事です。

「2012 to 2022」は10年前に発表された作品を起点にして、この10年間の作り手やシーンの変容についてあれこれ記していく記事のシリーズです。


「メンタルヘルスとポップカルチャー」は一端の若手精神科医が日々の診療で感じていること、そこから連想したポップカルチャーの話をまじえながら書き残していく文章のシリーズです。



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