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デカいカエルと異界への導き/『化け猫あんずちゃん』『めくらやなぎと眠る女』

デカいカエルが出てくる映画を2本、立て続けに観た。1本は「化け猫あんずちゃん」。いましろたかしの漫画を原作とし、山下敦弘と久野遥子が共同で監督を務めた。寺の和尚に拾われ大切に育てられるうちに化け猫になっていた37歳のあんずちゃん(森山未來)が、寺の孫娘で親子関係に難のあるかりん(五藤希愛)過ごした夏を描く作品。


もう1本は「めくらやなぎと眠る女」。音楽家でアニメ作家のピエール・フォルデス監督による、村上春樹の短編6作を組み合わせた仏映画。東日本大震災後に妻が家出をした小村(日本語版:磯村勇斗)が北海道に旅する話と、家に突然現れた巨大なかえるくん(古舘寛治)が冴えない会社員・片桐(塚本晋也)とともに東京を救う話が並走する。

デカいカエルが出てくるということのみならず、苗字と名前を有するが出てくる点、異界と現実の境が曖昧な世界観、そして実写の動きをアニメーションへと変換する手法で作られた表現技法など意外にも共通点が多い本作。ここではこの2作を見比べながらそれぞれ何を意味しているのか、何を描こうとしているのかを捉えていきたい。


カエルちゃんとかえるくん

「化け猫あんずちゃん」に登場するカエルちゃんは自らを大妖怪と名乗り、化け猫のあんずちゃんと同じく異界側の存在である。趣味は穴掘りで、掘り進めるうちに出来た空間に他の妖怪が棲みつき始める。いわば現世における異界のコミュニティを作っているのがカエルちゃんである。しかし連帯し何をするでもない。ただ何となくいる。

やることがないからやっていただけのカエルちゃんの穴掘りだが、これは作中で思いがけずかりんのピンチを救うことになる。そればかりか異界側の妖怪たちは現実側の人間よりもかりんちゃんを見守り続けてくれる。カエルちゃんにとっての暇潰しの単純作業がかりんを救ったように、時に異界は独自のやり方で我々の隣に現れるのだ。


「めくらやなぎと眠る女」のかえるくんは2011年3月23日に起こるという東京での大地震を防ぐために、その原因となる地下に住むみみずくんを共に倒そうと片桐に提案する。突然の異界からの訪問者と重大な使命に混乱する片桐だが、仕事の問題をカエルくんに解決してもらってしまい渋々承諾する。そしていつの間にか戦いは終わった。

こちらのカエルも異界との境目に立つ存在だ。しかしその姿は主に片桐にしか見えず、かえるくんが語る“想像力”の話からも精神世界における存在である可能性も濃い。かえるくんとみみずくんの戦いがもたらしたのは片桐の仕事での変化だ。片桐の信念と抑圧が互いを蝕み合うがそれでもやるしかない、という境地に至る物語として読める。


カエルは古くから物語の中で様々なメタファーを司る存在だ。水中と陸、どちらにも棲息することができるという点で無意識と意識を繋ぐ役割を担ってきた。また多産ということもあり誕生や豊穣を象徴してきた。押し込めてきた苦しみを表出させ、それと向き合い新たな始まりをもたらすのはこの2作におけるカエルも同様。異界へと導き、現実世界の生き方に確かな変化をもたらすのだ。



次元の揺らぎ

意識/無意識、異界/現実世界。こうした二つの領域を緩やかに移り変わり繰り広げられる物語という点が両作品の特徴であるが、こうした次元の揺らぎはそれぞれのアニメ表現にも表れている。

「化け猫あんずちゃん」は実写で俳優たちが演じた映像の動きをトレースし、アニメに用いるロトスコープという手法で作られた。描かれた二次元の世界であるが、動きや声には三次元の身体性が付与され、妙に生々しい。あんずちゃんが自転車を失くした時の困惑した動きなど、人らしい反応が”揺らぎ“としてアニメにもたらされるのだ。

「〜あんずちゃん」の世界は本屋で立ち読みするデカい猫や、ゴルフ場でキャディとして働くデカいカエルを日常として認識している。当然のように異界がそこにある違和感が笑いを誘うのだが、これも現実世界と異界を区別せず俳優たちが同じように演じた実写撮影の痕跡があってこそ。”隣り合う異界“を実体化するユニークな手法だ。


『めくらやなぎ〜』は俳優たちが演技した映像を基にコンテを書き、それをアニメにする手法で作られた。声は別でアテレコされ、更に日本語吹替版も存在するという何重にもレイヤーが折り重なったような作品である。やけに生々しい造形の登場人物たちはいかにも人らしく動くが、そこにアニメ表現として幻惑的な演出が折り重なる。

本作でその演出が効果的に用いられるのは、夢にまどろむようなシーン、また意識が奪われるようなシーンだ。森の中に潜む裸の女性と猫、地下鉄が巨大なみみずに変わるイメージ、紋様に包まれた男に銃撃されるビジョンなど。デフォルメを抑えた人物造形だからこそこれらの幻惑的表現が際立つ。日常へと”侵入する異界“が示されるのだ。


アニメーションに人らしい質量を与える「〜あんずちゃん」と、人の世界にアニメーションらしい幻惑を与える「めくらやなぎ〜」。実写→アニメというプロセスを同じように取りながらもその意義はかなり異なり、独自性を与えている。


あんずちゃんとワタナベノボル

両作における”猫“の存在もまた作品の独自性に大きく寄与している。猫が持つしなやかさ、そして人を翻弄するような気風を活かしつつ、固有の意味づけを行うことで作品の根幹を担わせてある。

あんずちゃんは怠惰なオヤジ的などうしようもなさと、猫らしい気ままさが掛け合わさったキャラクターとして描かれる。時に化け猫らしいズルさも垣間見えるが基本的には情に厚い。寺の和尚から受け取った優しさが根付き、意図せず人助けができてしまう。和尚とあんずの関係性には現実世界と異界が双方向に影響し合う様が表現される。

そんなあんずちゃんだからこそ、母親の死と父親への絶望によって現実世界で傷ついたかりんに寄り添うことが出来た。血縁など無関係に常になぜか傍にいてくれる存在としての猫は格別である。かりんが母を求めて地獄へ進む際に伴走し、鬼たちに立ち向かえたのも、現実界/異界の区別なく生きたいように生きる彼の気風があってこそ。かりんの拠り所として物語を温かくまとめるのだ。


「めくらやなぎ〜」に出てくる猫はワタナベノボルという名前を持ち、小村の飼い猫だ。しかし妻キョウコの失踪とともに家を出てしまい、行方知らずだ。また小村が夢心地になる時にも紺色に光る猫が現れる。姿形はやや異なるがワタナベと夢の猫は同一視されており、小村が意識的にも無意識的にも探し求める存在として描かれている。

小村は自身が抱える空洞を様々な出来事から突きつけられ続ける。しかしそれを決定的に指摘されたシーンで怒りを露わにした後日、意志をもって猫を探すようになる。この局面で猫は“自由”のメタファーになる。空っぽなまま空気に同化していきそうな小村にとって必要なものとして映るようになる。それを踏まえ、ワタナベがどのように見つかるか思い返すとその皮肉がより痛く刺さる。


猫は古くから物語においていたずらものの象徴としてトリックスターを役割を担ってきた。トリックスターとは、秩序と混沌、文化と自然、善と悪など対立する2世界の間を行き来し、知恵と策略をもって新しい状況を生み出す媒介者とされ、カエル同様に2つの世界をまたいで人に影響をもたらす存在でもある。そんな2種類の生物が、次元の揺らぎの中で躍動する。この夏、知らない場所へと続く扉はこの2作の中に聳え立っている。


【参考文献】
・森省一「カエルの無意識、ネコの知恵: メルヘンを読む (ちくまプリマーブックス 115)」
・明鏡国語辞典(大修館書店)

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